畑の中で、草を刈りながら考えた。
「あいつはなんでああなんだろう。。私の気に入らないことをいつもする。
まてよ。この世は自分の鏡と言うではないか。とゆーことは、あいつはわたしか?
あたしゃああんなに性格が悪いのか?」
大きくなり過ぎて、自分の重みで倒れたメヒシバ(雑草のこと)を刈りながら、ぶつぶつ言う。
「。。。あれ?ひょっとしたら、これは私が考えていることじゃないか?」
手が止まった。
「え?そうなの?え?え?え?そーいうことなの?」
あいつはひでえ性格だ。協調性がなく、自分の意見をたたみかけるよーにいい、いつもあたしはあいつにやりこめられるんだ。
そう思っている私。
量子力学でいくと、そのままあらわれる。
観察されるものは観察するものの影響を受ける。
あなたが信じたものを見る。
この世は鏡だ、というのは、「自分の性格があらわれている」のではなく、
「自分が考えていること」があらわれているのだ!
なんだ、なんだ、なんども自分で言ってるじゃないか。それなのにじぇんじぇん気がつかなかった。すべては「自分で考えている」ことがあらわれているだけだ。
たとえば、ダンナはケチだと断定するあなたがいるとする。
そーゆー目でダンナを見るので、ダンナさんはケチを演じてくれる。それを見たあなたは、
「ほーらね。やっぱりウチのダンナはケチだ。ったく、どこまでケチなんだろうね。ふんっ」
と勝ち誇ったよーな気分になる。
すると予想は確信に変わり強固なものになるので、ダンナさんはますますドケチを演じ切ってくれるのだ。
これ、あなたが演出してね?
あなたは目の前にいる役者に
「きみ、ケチを演じなさい」
と、演出指導をしている監督なのだ。
「きみ、ケチを演じなさい」
と、演出指導をしている監督なのだ。
では、ダンナにケチを演じるのをやめさせるにはどーしたらよいか。
「きみ、ケチを演じるのを今すぐヤメなさい!」
といってみてもダメなのよん。
そのことを理解することだけだ。
理解だ。理解。
言葉でいくら「ダンナはケチじゃない。懐が広~いニンゲンだ」と言い続けても努力の割には報いが少ない。
こころの奥は正直だ。ホントーに信じているものしか、表に出してくれない。
そのからくりを理解するしかない。
それは自分で確かめるのが一番。
自分の気に入らないと思っている人に、なんの演出(つまり断定)を与えているか知ることだ。
今までの方法論のように、何かに置き換えることはもはやできない。
知ると、消えていく。
本当にそのことに気がつくと、消えていく。
演出している自分に気がついていくと、その役者はそれを演じなくなる。
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