私たちはいつも答えを求めている。
小学生だった頃、算数が好きだった。
1+1=2。
明快だった。
答えは一つしかなかった。
方程式も好きだった。
答えはいつも一つしかなかった。
だが。。
大人になって、1+1=2、ではなくなった。
数学は、もっと奥に進むと、2でもあれば、3でもあるし、5でもあるし、100でもある、というふうになった。
。。。。不安になった。
そういえば、私は国語がきらいだった。なぜかというと、答えが曖昧だからである。(ウソつけー。漢字が読めないからだろー)感想文なんか、もっときらいであった。
こういう考えもあれば、はたまたこういう捉え方もできる、というふうに、答えが一つじゃなかったからだ。
こうなれば、こうなる。
というふうに、わたしたちはとらえがちである。
それは算数で明確だったものが、奥に進めば進むほど、複雑で曖昧で、答えなどない、的なところにいっちゃうのが、心もとなくなるからではないだろうか。
子供の頃、おかあさんに、
「これはこうするのよ」といわれれば、
「はいっ、おかあたん!」
ってそのようにやれば、
「まあ、よくできたわねえ」
と、ほめてもらえた。
そのころ、答えは一つしかなかった。
お母さんからもらう方程式である。
だが。。。
ちょっとオトナになり始めると、
「これは、こうもできるぞ」
と、近所のオヤジにへんなことをすり込まれる。
えっ?おかあさんはちがうこといってたのに。。。
すると不安になる。
これはこうもするものだし、そして、これは、べつなこともすることができる。。。
答えが一つじゃなくなった。。。
もっと大人になって、石けんはいらない、と知った。
それまで、おかあさんに、
「毎日きれいきれいに石けんでカラダを洗うのよ。歯磨きは歯磨き粉できちんと。そしてシャンプーは絶対必要よ」
「はいっ、おかあたん!」
「まあ、いい子ねえ」
と、方程式をもらったはずだった。
だけど、石けん。。。。い、いらなかった。。。。
そして、野菜に肥料もいらない、と知った。
では、答えは一つなのか。
石けんいらないという答えと、肥料はいらないという答え。
はたしてそれは「答え」なのか。
そもそも「答え」などこの世にあるのか。
ある、っておもってるからくるしいのではないか。
あの頃、おかあたんと私、というシンプルな世界に、答えは一つしかなかった。言われた通りにやれば、全てオッケーだったあの頃。。。
人はどこかでつねに答えをもとめている。
もとめてもとめて、ほいでもって、やっと手に入れたその新たな答えに
「え~~~~。。。」って戸惑って、
ほいでもってまた次なる答えを探し求める。
「え~~~~。。。」って戸惑って、
ほいでもってまた次なる答えを探し求める。
私の生き方がおかしい。。。とおもえば、人は答えを求めて外へ探し求める。
ここのセミナー、あそこのセミナー、
ここの宗派、あそこの宗派、
ここの会社、あそこの会社、
ここの先生、あそこの先生。。。。
あげくにここの病院、あそこの病院。。。
答え、あった?
それは「とりあえず」の答えじゃなかった?
でももとめているものは、「ぜったい」の答えじゃなかった?
答えがあったのは、幼い頃だけだった。。。
それは、その答えを通してこの世のルールを知る、という一つの段階であったのだ。
だからこれは一生ついて回る「正しい答え」ではないわけだ。
だけどあのクリアだった、シンプルだったあの感覚が忘れられないから、人は答えを探し続ける。
それは、その答えを通してこの世のルールを知る、という一つの段階であったのだ。
だからこれは一生ついて回る「正しい答え」ではないわけだ。
だけどあのクリアだった、シンプルだったあの感覚が忘れられないから、人は答えを探し続ける。
だけど母に言われたことばや先生に言われたことばは、成長すればいつでもひっくり返せるし、もはやそれにとらわれることもないのだ。
答えは一つではなく、そして、答えそのものもない。。。
やまんばは今日も畑で土をほじくる。
夜露に濡れた草は、土の中の水分を外に出しているのか、それとも、夜のあいだに空気中に存在している水をとらえて根に運んでいるのか。
答えはあるのか。
わからない。
ニンゲンのおよびもつかないところで、植物達はひたひたと生きている。
その姿を見るたびに、ただ畏怖の念にかられる。
ニンゲンはそこに「答え」をみいだす。
だけど植物は、そこに「答え」という概念はない。ただそこに気高く存在するのだ。
絶対の答はない。そおなんです!!
返信削除けど、全体の答はある。これが結構厄介・・。
いわゆる常識という名の答えですね〜。
返信削除厄介ですよね〜。