2013年5月23日木曜日

ほったらかしな心



部屋がぐちゃぐちゃだと、ぐちゃぐちゃがもろみえである。
だからきれいにすることが出来る。
だけど、心ん中がぐちゃぐちゃなのは、目に見えない。
だからきれいにすることがない。

ジャンクフードばっかり食べていると、気持ちが悪くなって、それを食べるのをやめたりするけど、心ん中がいつも同じジャンクフードばかり食って気持ちが悪くなっても、ちょっとテレビみてるあいだに気持ちの悪さが消えると、また同じジャンクフードを食い続ける。

心ん中は、わしら現代人にとって「目に見えない」から、ほとんどが「ほったらかし」なのである。
そのほったらかしの心ん中は、ぐちゃぐちゃなので、行為が支離滅裂になる。

外でマザーテレサな人が、ウチではランボーになる。
「あんた何様のつもり!?」ってな人が、ウチでは宮沢賢治になったりする。

何しろ目に見えないもんだから、メンドーなのである。

だけどゆいいつ、目に見えて明らかなことがある。
それは感情である。
ピキッとくる。イラっとする。びくっとする。がくっとする。むかっとくる。おちこむ。
そんな感情的反応である。
これが心の中が、今どうなっているかを教えてくれるヒントなのだ。

こーゆーのは動物的反応だと思われているけれど、じつはほとんどが言葉によって引き起こされている。自己防衛本能が与える感情的反応なんだけど、その自己防衛とは、生き死にのもっと手前の、自己の尊厳を崩壊させられると思い込んだ瞬間の、自己防衛的反応なのだ。(早い話がプライドが傷つくこと)

だれかと口げんかになって、その後まともに事態が収縮することがあるだろうか。オトナな付き合いは、それぞれの感情を抑えることによって収縮しているように見える。だけどそのあと、尾を引かないだろうか?すっかり終わっていたら、後でウジウジそのことを考えたり、カンケーない他の人にあたってみたりするだろうか。

誰かに意見されれば、必ずと言っていいほど反論したくなる。
人格者は「ああ、君の言う通りだ」と納得するだろうけど、凡人は
「おめえに言われたかあねえよ!」となる。

口では言わないよ。おとなだもん。だけど心ん中はそう言ってる。いや、心にも浮上していないかもしれない。底の底の方にまで沈ませている言葉だ。自分じゃ気がついてないけど、なんだかしらんが無性にハラが立つ。だから反論する。
自己を他人から防衛しているのだ。なぜ?自分の存在が脅かされるとおもったからだ。でも他人は君に意見をしているだけだ。別に殺そうとしているわけじゃない。なのに必死で防衛する。

違う違うそうじゃない!そんなふうに考えているわけじゃない!君の方が間違っている。おれは絶対正しい!
心の中はそう叫んでいる。

反論すると、今度は言い出しっぺの相手の方も反論してくる。もちろん相手も自分の意見にチャチャを入れられてカチンと来たんだ。相手も自己防衛を始める。

こうしてえんえんとお互いの自己防衛反論が続いていく。
内容うんぬんはいつのまにかどっかにいっちゃって、たがいの存在レベルなところにまで発展してしまう。何も解決していない。何も終わらせていない。

そうゆうものが、ぐちゃぐちゃと心の部屋の中にほったらかされてつみ上がっている。
それは解決されたり、消化されたり、気づかされたりして消えていないので、いつまでもそこに残り続けている。

ある日、似たような状態がやってきた時、部屋のすみっこで埋もれて寝てたそのゴミ(?)は、いきなり立ち上がって叫ぶのだ。
「おれは悪くない!」


2 件のコメント:

  1. まいうぅーぱぱ2013年5月25日 23:06

    要は人間は自分で思った通りに生き(行き?)たいんだと思います。んで、誰かにその道を通せんぼされると「なんで!!」ってなっちゃうんだと思う・・・。
    だったら他人に干渉しないで生きればいいんだけど、そうなると、孤立化するし・・・、そもそも一人で生きられないのが人間だし・・・。
    トラブっても、致命的にならず、みんなと折り合いつけながら生きてければいいんじゃないか・・。

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  2. そうそう。人は思った通りに生きたいのよね!

    思った通りに生きられないってのは、常識なんだけど、ひょっとしたら、思った通りに生きなれないとおもっているから、思った通りに生きられないのかも。
    量子力学的に言うと。

    観察されるものが、観察するものの影響を受ける。

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