2013年1月15日火曜日

平穏死つづき



平穏死で一番やっかいなのは、遠くの長男なのだそうである。(わしか?)

患者さんが医者と常日頃、やり過ぎの延命治療はやめて、出来るだけ自然な状態で死期をむかえる平穏死でいきましょうと決めていても、いざとなったら、遠くにいる長男や親戚がわらわらとやってきて、そりゃないだろう!と訴えてくるのだそうだ。

年末年始のころは親戚が集まってくるので、特にそういう苦情が続発するのだそうな。そうなるとそれを説得させることは難しいという。日頃の患者さんをよく見守って話を聞いて、その状態を実感として把握していないから、どうしても生き延びるだけ生き延びさせなければいけないという大義名分がでてくるそうだ。

本人がそれでいい、と言っているにもかかわらず、それじゃダメだ、という心理はどこからくるのか。

「あたしはねえ。あのとき母の面倒を見られなかったことがどんだけ悔やまれるか。。。だからあなたには、そういう苦悩をしてもらいたくないからいうのよ。。。。」
このごろそんな話を立て続けに聞く。

彼女は母に出来なかったこと、出来なかったのはこれこれこういう理由があったからなどと、私にえんえんと訴える。
訴えられても困るのだ。だけどそれを私に訴えるのはわけがある。「あなたにはそういう思いをして欲しくないからなのよ」だ。だがそれを聞く私は、そのあなたとは今日初めてあったばかりで、その初めてあったばかりの人を本気で心配していってくれているのだろうか。

ほんとは、母の面倒を見れなかったことへの後悔と、それに対するいいわけを心の中でただただくりかえし、それを私に訴えているだけのように見える。まるで「そこまで考えている私はえらい人でしょう?」とほめてもらいたいかのようだ。

そうだ。ほめてもらいたいのだ。
人間とは不思議な生き物だ。

彼女の母親は、彼女が面倒を見なかったことを死んでも怒っているのだろうか。いやきっと、自分が自分に対して怒っているのだ。死んだ人は彼女に対して怒っていなかっただろう。だってそんなひどいことを母親にするような人には見えなかったもの。きっと母親は、彼女が仕事で忙しくて看病できなかったことを理解していたに違いない。

だけどそれを彼女自身が許せない。自責の念はえんえんと続く。それには母がもうこの世にはいないことで「答え」がみいだせないからだ。だけどたとえ母親が夢枕に出てきて「あなたは頑張ったわ。わたしはあなたを怒ってないわよ」と言ったところで、彼女の気持ちは収まらないだろう。

こうして人は、罪悪感と自責の念の中で生きる。
「母」という言葉がでてくると、自動的に「私の罪」を思い出し、それを聞いてくれる人があれば、また同じ話を繰り返すのだろう。
いくらそのとき他人にほめてもらっても、自分自身がそのえんえんとまわっている心の繰り返しに気がついて終止符を打たない限り、止まりはしないだろう。


良いこと、悪いこと、という二元論が人を動かす。
「親の面倒を見ないことは悪いこと」という法則は、あらゆる側面で人々の心を縛り付ける。

だから遠くの長男はめんどうなのだ。

逝こうとするする人を延命治療で引き止めるのは、本人のことを考えてのことではなく、自分の自責の念からのがれるためなのかもしれない。

やまんばは日々自責の念の中でおろおろする。あんなことしちまった、こんなことしちまったと思う自分の心に翻弄される。だから自分の親がいざということになったら、おろおろして迷いまくって大騒ぎしてぐちゃぐちゃになるにちがいない。その後も、みんなに言いまくって、いいわけしまくって、みんなに許しを乞おうとするだろう。

あらためてそういう自分に気がつくことができて、いい本にであったなあとおもうのであった。

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