2012年2月11日土曜日

非難と正当化

非難と正当化。
今、この二つのことが人々の中で溢れかえっている。

心の中は、人への非難、セーフへの非難、システムへの非難、学校への非難、などなどいそがしい。そして非難している自分は、あの人を非難できる私は正しいと、自分を正当化できるのだ。すなわち非難をするということは、正当化とセットになっているのだ。
それは自分を非難することも同じだ。
オレってバカだ、あたしってだめだ。という。
しばらく言ってると、だんだん心が耐えられなくなる。すると今度は、でもそこまでじゃない、とか、あいつよりましだ、とか、あれはあのときしょうがなかったんだ、という言い訳をする。ほら、正当化。

そうやって心の中で非難と正当化が行ったり来たりする。

最近はやっているツイート。
単に呟くのだけど、そのつぶやきが活字になる。自分が心の中でぶつぶつ呟くことが活字になる。すると不思議なことに、活字になるとなんだか自分が正しいような気分になってくる。

ほんでまた、それに「ウンウン、それ、わかる~」なんてコメントを貰ったりしたら、もう「絶対的にアタシは正しいのだ」となる。
自分の心でしゃべっていることをそのまま活字にすると共感もしてもらえるし、正当化出来る。これは快感だー。快感は習慣になる。

じつはそれが公の場にさらされていて、その人の胸の内を全部見せてしまっていること、そしてまた、その人とかかわる、例えば仕事先の人が、ひょっとしたらその人の胸の内を完全に見ているかもしれない。そういう危うさが、正当化される快感によって分らなくなってくる。それはたとえ匿名にしていようと。


そーすると、これがなくては自分を正当化でできなくなる。ツイートに依存をし始める。どこかで「自分ってひょっとしたら、間違っているかも。。。?」と思っているが、それを「そんなことないない」といってくれる誰かがいることによって「おっしゃ、やっぱりアタシが正しいんだ」と自分を説得できるからである。

するとだなあ。誰かが「きみ、ここちがうんじゃないかなあ~?」と、せっかく指摘してくれたとしても、「アタシは間違っていない」というツイートによる正当化で、自分自身のいたらなさに気がつくいいチャンスを自ら消してしまうことになるのである。

非難と正当化は同じコインの裏表だ。それは自分からの逃避の材料。
その心のうちは、自分を見るのがこわいから、言い訳をして逃げようとしているのだ。

じつは心で勝手に自分を非難しているだけなのだ。ほんとに勝手にひとりでやっているだけなのだ。誰もそれをしなさいとは言ってないのに。

それは小さい時から「これをやっちゃいけません」という条件づけをもらい続けて来たからだ。だからいけないことをしてしまった自分を見るのがこわい→瞬間にそこから逃げようとするという条件反射をするだけなのだ。

私たちは自分を責める必要も、他人を責める必要もまったくないのだ。

もしここに自分を非難する瞬間の動きがなかったらどーなる。
「あ?それ?そういえば気がつきませんでした。今後気をつけます」
となる。
それをしてしまった自分を、何の感情も動かさず見る事が出来る。そのとき、それは部分ではなく全体的に状況を見渡す事が出来る。そして言った相手の言う意味が分かるのだ。
ではその非難する自分という条件付けはどうやって取り払う事が出来るのか。

誰かに何か言われる。それに心がぴくっと反応したら、その反応に気づけ。自分の中にそれがあることに気づけ。そこから逃げない。やって来た問題をだれかのせいにするのではなく、自分の問題としてだけとらえる。ツイートに逃げるな。そこにい続けろ。思考を動かすな。思考は感情を増幅する。ただ自分の中に、今、起っている動揺とともにいろ。それを見続けろ。
ただそれだけで、心は軽くなるのだ。

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