私がたんじゅん農法が好きになった理由は、挑むからだ。
山の木や植物はいったいどんな理由であのように大きくなったり豊かにはびこったりするのだろうか。小さなニンゲンが作り出した自然のミニチュアのような畑の中で、その理を見つけ出していく農法であることだからだ。
それまでやっていた自然農は、自然は偉大なものだから、自然にやさしく、自然を怒らせないように、自然の育つままに任せよう、という考えが元になっている。基本的に慣行農法よりも小さく育つ。その理由は肥料であんなに大きく育てられる事自体が不自然なものだからである。本来はあのぐらいの大きさなのである。という考えに基づく。
一見「自然にやさしい」農法であるが、その後ろに「自然はこわい」という心理がコインの裏側にひそんでいる気がする。自然は理解しがたく恐ろしいものだから、自然がやりたいようにやっていただく。私たちニンゲンはそのおこぼれをいただく、というようなどこか悲観的な気分にさせられる。
創始者の川口さんの本を読むと「本来の姿に戻してやればいい」とか「種を降ろしてやる」とか「大切な全体の姿を悟り取られて下さい」いう言葉があちらこちらにでてくる。その言葉を読むたびに、やさしく言い回しながら、なんだかおごった言葉だなあとおもう。
私が草ぼうぼう畑にしたのは、福岡正信さんの本に衝撃を受けたからだった。もし最初に川口さんの本に出会っていたら、きっと畑はやらなかったに違いない。だが福岡さんの本に出会ってしまった。すごいとおもってしまった。どころがいざやろうとすると、「無から始まって無が終着点となる」という彼の本は哲学的すぎて、どーにもこーにもやりようがない。粘土団子を作ってみてもうんともすんともらちがあかない。そりゃそうだ。彼の理想とする畑の姿は、後ろの山の上から木を変えていかねばならないのだ。ムリ。だからハウツーを教えてくれる自然農にした。
やっているうちに、土は掘り起こしてはいけない、耕してはいけない、とやってはいけないことが色々ある。ちょちょっとニンゲンが手を加え、ただ自然が畑を作ってくれるのを待つのである。そして小さめの野菜が育つ。うんうん、それでいーのだ、それで。。。
だが、あの福岡さんの畑で育っていた写真で見たあの超巨大なカブや超巨大な大根はなんなのだ?福岡さんがわしらに見せてくれたたわわに実った稲はなぜなのだ?あれは野菜の可能性を見せてくれたんじゃないのか?自然がどんな姿にでも変化するという彼らの力を「へへへ〜っ、こうなるんだどー」と、わしらに見せてくれていたんじゃないのか。
だが自然農は「ニンゲンは浅はかな存在なのだから、静かにおとなしくしていなさい。それを悟られて下さい」と言い聞かす。なんだ、仏教みたいじゃないか。
だがたんじゅん農法は、所詮ニンゲンのやる事はすべてが不自然きわまりないんだから、その不自然をいくら自然に近づけようとしたってムリ。だったら何でもやれ。肥料がなんやかんやとか、今までの条件づけを捨てろ。山に行って這いつくばって自然の姿を良く観察しろ!と。
胸の奥の方がワクッとしないだろうか。あれダメ、これダメ、おとなしくしていなさい、と押さえ込まれるよりも、「なんでもやって見ろ」と言われた方がいい。子供も大人もそこら辺は何も違いはない。
多分たんじゅん農法もまだ発展途上なのだ。それが終着点に届くとは私は思わない。すべてのシステムを完成させた途端、自然は「あらよっ」とまた別の世界を表してくるのだ。
この世は常に流転していてとどまる事がない。安定という言葉はニンゲンが作り出した観念だ。そこにとどまっていて欲しい変わらないでいて欲しいという恐怖から作り上げた妄想なのだ。だが現実は否応なく変化し続ける。
その変化の中に自分の身を置く。変化するのがふつうなのだ。たんじゅん農法はその場に押しとどめる法則ではなく、福岡さんのいう「何もないのだ」という所に向かおうとしている、そんな気がする。
私が言うこっちゃないけどね(笑)
返信削除ちっちゃくても、美味しければいいんじゃね?
って、野菜にとっては、美味くなろうって思いはないでしょうが(私にとっても美味しいお腹に・・っていう意識ないけれど見事に成長したし・・・)・・・
ちっちゃいおっきいの問題ではないのよん。ちっこくてもいーの。
返信削除なにがしたいかというと、自然の神秘に触れたいのだ。
「ああっ。。。」って、かんどーしたいのだ。
畑で一人ヘンタイなやまんばです。