2011年7月17日日曜日
我らは退屈している
人々は退屈している。
朝決まった時間に起こされ、母はバタバタと朝の支度をする。子供たちにお弁当を作り、朝ご飯を作り、決まった時間にダンナを送り出し、決まった時間に子供たちを送り出す。決まった時間にパートに行き、決まった時間にお昼ご飯を食べる。決まった時間に子供たちを迎えに行き、決まった時間に夕飯を作る。明日の事があるからと、ゲームに夢中になる子供たちを怒り風呂にいれ、一息ついて家計簿つけている頃にダンナがご帰宅。明日があるからと無理矢理寝床に入り、眠れないまま朝を迎える。決まった時間に目覚ましで起こされ。。。。
奥さんの怒鳴り声で重い身体を起こし、寝ぼけ眼で朝飯をかき込む。頭はきのうの仕事の事で一杯。奥さんの言葉も聞いてない。「ねえ、だから今度の日曜日はあけておいてよ。ねえ、ちょっと聞いてるの!」という言葉で現実に戻される。満員電車にゆられながら、心は今日の午前の会議に気をもみ、込み合った電車で自分の前に立つお姉ちゃんのからだに出来るだけ触らないようにと気をもむ。会社で上司に気を使い、最近は部下にも気を使う。決まった居酒屋でうっぷんを晴らし、飲み過ぎたと言いながら、また次の日も飲む。いかん、朝起きられないからもう寝なきゃ。。。奥さんの怒鳴り声で起こされる。。。「パパ!早く起きてよ!」
人々はちょー忙しい。いそがしーのに、心は退屈している。決まりきった事を繰り返しているだけだからだ。身体はでろでろに疲れてる。身体が疲れりゃ、心もそれに引っ張られる。だから何かの刺激がやってくると、ウホっとなる。奥さんはパート先の若いお兄ちゃんとちょっといい感じだし、パパは得意先の秘書と不倫する。ひと時のアバンチュールで心は活性化し、元気玉をもらう。だがその不倫相手とゴールインしたところで、また元の木阿弥。「ちょっとパパ!聞いてるの!」となる。
心は常に刺激を求めている。日々の生活にほとほと退屈しているのだ。それをなぜ続けるのか。子供のため、将来のため、定年まで、ローン払い終えるまで。。。頭でいい聞かせながら続ける。ほとんど奴隷状態。強制的に入れられたわけでもなく、自分で入った監獄。
テレビで被災者がインタビューに答えていう。
「早く元の生活に戻りたい」
「むかしと同じように仕事がしたい。。」
泣ける話だ。ウンウン、そうだよね、元の生活がどんなにステキだったか。。。
でも私の知人が仕事で被災地に心のケアをしに行ったら、そのケアは震災にあったわが家の話ではなく、近所の人やダンナがひどい人だという被災とは関係ない日常的な悩みで満ちあふれていたのだそうだ。元の生活に戻れば救われる話でもなさそうだ。じっさい、元の生活はやっぱり苦しいものなのだろう。
なくなればそれが恋しくなり、あればあったでうざい。一瞬一瞬を生きるのが人生、今を大事に生きろとは言うけれど、そんなの頭で言い聞かせているだけ。生活の中にどっぷり入れば、ステテコ一枚でケツをボリボリかくダンナの姿にうんざりする。
するとテレビではやらせメールのニュースが。するとネットでは「原発反対!」とデモする俳優が。心はちょっとウキッとする。退屈な生活にちょっと刺激がある。おかあさんは、子供たちのために放射能を気にする。するとどこそこの場所がホットスポットになっていると言う。なんてことなの。それって近所じゃない。うちだって危ないじゃないの。いつどこで放射能がたまっているか分らない。
お母さんはネットで調べる。するとでてくるでてくるいろんな情報。身体がだるいのも放射能のせいのようだし、気分が落ち込むのも放射能のせいのよう。脳が冒されるらしいのだ。
「パパ!ここでは子供は育てられないわ。」
「そんな事言ったって、オレは仕事があるし、この家のローンだってある」
「パパ、子供たちと仕事とどっちが大事なの!」
おかあさんは、パパのその言葉に「うらぎられた」とおもう。
「あの時あんな風に彼は言ったのよ。それってどうなの。やっぱり彼は私たちより仕事の方が大事なのね」
だんだん関係がぎくしゃくなる。
パパの態度に反発するかのようにお母さんは動き始める。ネットで調べに調べる。それまでだるい日々を過ごしていたが、彼女はがぜん生き始める。反対運動にも参加する。原発のシステム、放射能の種類、いろんな事に詳しくなる。内部被爆を気にして食物を探して全国から取り寄せる。
先日も放射能を憂う人が言っていた。
「何も言えないわ。だって、何年後かに孫がどうにかなっちゃったら、『ほら、あのときおかあさんが行くなって言ったから子供がこうなっちゃったじゃないの!』と言われるのはつらいわ」
だから息子家族は大阪に引っ越し、息子は東京で仕事して週末大阪に帰るのだと言う。一見、聞き分けのいいおばあちゃんのようだが、よく考えると、本人の保身である。それはそれで悪い事ではない。しかしそれが保身である事を自覚する必要がある。
みんな自分の未来を案じている。自分の人生を憂いている。それまで漠然とした不安のまま生活していたのが、今回の放射能で一気に「不安」が増大した。
未来の見えないこの国への憤りや不安があふれている。しかしホントにこの国を憂いているのだろうか。ホントは自分を憂いているのではないのか。この世で誰よりも泣きたいのは自分じゃないのか。その悲しみや怒りをどこかにぶつけたいのじゃないのか。
その矛先が原発だったのかもしれない。それは時代が違えば、戦争反対だったのかもしれない。。。。
やまんばは憂う。
放射能や原発よりも心配なのは、このとてつもない不安の固まりはどこへ行くんだろうか、お母さんの頭の中だけで消化できるものなのだろうか、ということなのだ。
福島の放射能はチェルノブイリの100分の1だと発表された。しかし今はもう誰も信じない。目標は限りなくゼロに近い数値をという。しかし福島は今もだらだらともれてはいる。それを危ないと言い続けることはできる。そして不安はずっと膨らみ続ける。何年後かに突然襲ってくるかもしれない我が子への仕打ち。それを想像するだけでお母さんは身の毛がよだつ。
今、情報は考えられる事すべてが出そろった。あとはその中でどれを「選択する」かになってしまった。
心は暴走する。退屈した心は何か目的をもった瞬間、走り始める。「子供のため」という誰よりも正統な目的のため、巨大な大義名分のため、これからもっと加速して行くのだろう。
私は「放射能は脳を冒す」という情報を読んだ瞬間、来てしまったとおもった。これが正しいかどうかは知らない。しかしこういう情報が出るという事は、それを聞く人がいるという事だ。これはどんな状態になっても、すべて放射能のせいにできるのだ。つまり自分を正当化できる。心はうまく自分を守る事ができる。
何かしなければいけないと思い込んでいるけれど、道路でセシウムを見つけても除去する事は出来ない。測っても測っても消えない。そのかわり不安は大きくなる。それをやり続ける意味は何なのか。それは「なにかしなきゃ」という思いがそうさせる。ほんとうは、何かしていないと不安なのではないか。
しかし何かすればするほど、ますます不安を大きくする。大きな矛盾を心が抱えることになる。大義名分と不安のはざまで揺れうごき、自分で調整できなくなる。するとその先は。。。
心に振り回されるな。なにもするな。
今自分が何をどう感じているかを自覚していて欲しい。「考えるな!感じろ!」という言葉がもてはやされているけれど、その先がある。何を感じているか、どんな感情を今かかえているのか、常に知っていておくれでないかい。感じるままにしていると、洗濯機の中にいてぐるぐる回されているだけだ。その洗濯機を外から見ていておくれ。その感情をイケナイことだと思わず、何の非難もせず、ただしずかに観察していておくれ。心を洗濯機の中に入れておくと、まわされ続けて巨大になる。しかし外から見ていると、やがて渦は消えて行く。
心は刺激を求めるという厄介な代物である。その暴れ馬をうまく乗りこなす事がホントに必要な時代になった。昔からいわれている事だったが、今はそれを忘れてしまっている。
感情を持つ事は素晴らしい事だ。その感情を避難も正当化もしないで、ただ眺めて欲しい。
そののち、やがてやってくる静けさの中には、ニンゲンのあらゆる可能性が埋まっているのだ。
絵:「こんなに厳しい!世界の校則」MF新書 おもろいで〜。
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