2011年5月28日土曜日
シャンプーなし、どおよ!
ひさしぶりに美容室にいく。ここの美容室は私のお気に入り。なかなか豪快で臨機応変な店長がいてくれるからだ。なんと同郷であった。お互い高知の田舎から出てきてウン十年。高知県人同士なのに標準語で喋ってしまうが、やっぱり高知は高知。話が弾む。
「髪、全然さらさらじゃん!」
何でも喋ってしまう私は、止めた直後から、
「シャンプーリンス止めたから、シャンプーしないでちょ」
とお願いをした。
店としてはたまったもんじゃない。いきなり常連客が、シャンプーしなくなったからよろしく!と言って来た。しかもあぶらでべとべと。なのに店長はイヤーな顔一つせず、興味深そうに髪を触って感触を確かめた。
あれから2年と3ヶ月。自慢じゃないが、シャンプーしたのは二〜三回。それも洗面器にお湯はって、シャンプーをセミのおしっこみたいにちょろっと出しで薄めて洗っただけ。
その後じょじょに変化をする私の髪をじっと観察して来た彼女であった。
がばっ!
店長は手で私の頭を押さえ、自分の鼻をガッと近づけて、頭のにおいを嗅いだ。その瞬間をガラス越しに見た私は一瞬ドキッとした。
「におわない。。。」
ひとり言のようにつぶやいた。
それから「なんで?なんで?どうしてこんなにさらさらなの?」
髪を触りながら何度もつぶやいた。
切った後、スタッフのお姉ちゃんと私の両側でドライヤーで乾かしながら、
「乾くの速や〜!」と二人で合唱する。
そーなのだ。私の髪は、いまや薄いあぶらの皮膜におおわれて、さながら水に入った鳥の羽根のごとく、一瞬で乾くのだ。
髪の白髪は相変わらずだ。日々まい進を続けている。やまんばとしては、このまままっちろになってくれるのを楽しみにしている。しかし、抜け毛はへるし、枝毛は皆無だし、かゆみはないし、髪はコンブトになるし、乾くの速いし、さらさらだし、お金かからんし、何ら問題はない。ニンゲンのカラダはなんと完璧であろうか。それだけで自己完結しているのである。この事を教えてくれた「野人エッセイす」の偉大なる野人さん、ありがとー!
ただ一つだけ仕事がふえたのは、ブラシにつくフケのようなものだ。だがかといってフケ症になっているわけではない。単にブラシにつくだけだ。これを髪のうんこと呼んでいる。髪のうんこをブラシからとるのは私的には楽しい時間。ほら、鼻くそとったり、耳くそとったりして集めるの楽しいでしょ?あれと同じ。(楽しいのはあんただけ)ティッシュの上にまとめて、丸めて、匂いをかぐ。私のフェロモンのにおいがする。しかし前と比べてずいぶんにおわなくなった。かすかににおいがするだけである。それがちょいと寂しくもあったりする(変態か)。
店長のような臨機応変な人はなかなかいない。お客のくせを、すべてそのまま受け取ってくれる。彼女は豊かな心をもった人なんやろね。
最近のみんなの心持ちは、どっちかっちゅーと、あれもこれもだめだだめだとヒステリックなかんじ。でもさ、それもほんの少しの心のもちようでころっと変わることなんかもしれん。豊かな心とヒステリックな心は、ほんのちょっとの違いなのかもしれん。ほんのちょっとのね。
絵:オリジナル絵本より「大天狗」
2011年5月24日火曜日
畑けちょんけちょん
「あんたんところの畑、こないだ見て来たよ。ありゃあすごいねえ。うん。ひどいもんだあ。野菜っちゅうのんはよお。こーやって、きれーいに草とって育てるもんだあ。まあ、畑っちゅうのんはその人の性格が出るっちゅうからよお。あんたんちはよっぽどだらしねえんだろうなあ」
と、近所で畑をやっているおじさんは笑いながら言った。
言ってることは、かなりけちょんけちょんである。しかし笑いながら言う。バカにした笑いではない。何かこう「あんたのこたあ好きだよ。けんどありゃないやろ」というかんじ。人は小バカにしているのかしてないのか、瞬時に分る。んだもんで、こっちも笑って答える。
「いんやあ~。すんませ~ん。へえ、ひどいもんで。え?ウチ?もう、見られたもんじゃあございやせんよ」
てへ、と頭をかきかきその場を去る。
ここいらの畑は見事なくらい慣行農法と有機農法のミックスである(あたりまえか)。畑は、リタイヤしたおやっさんのホコリの象徴なのである。草一本畑にハヤカしちゃあなんねえ。農薬かけるときゃあ、ちょいと後ろむいて、誰にも気づかれないようにちょちょちょいとすます。
するってえとどおだあ。あっという間にぐっとでっかくもりもり育った、青々と、つやつやとした野菜が出来上がるってえもんよ。隣近所その見事さを競い合うってわけさ。
そんな土地柄だからやまんばの畑は物笑いの種になる。そんくらいがちょうどいいんだと思うんだ。アホがひとりぐらいいた方がゆったりする。そんでもって嬉しいのは、そのあほうをそのまんま受け取ってくれていることだ。
でも、問題はやまんばの心の中なのだ。
どこかで罪悪感がうずきはじめる。心の中で正当化が始まる。非難されたと思っているのだ。もしかしたらこれはいけない事をしているのではないか?と自問自答始める。自然農やりたいと言い出したのはこの私。そのせいで、いっしょにやっているぱぱさんちに貧そな野菜しか渡せない罪悪感。有機農法やったら、うんとりっぱな野菜が育てられるのに!なのに私の勝手でこんな状況にしてしまっている。。。
するとその罪悪感の苦しさから逃れるために、今度は未来を想定し始める。
そのうち大きな野菜がとれて、みんなをよろこばせるんだ。そしたらあのおやっさんにも見せて、私のやり方の正当性を見せつけるんだ!
非難されたと思う→罪悪感におちいる→苦しくなる→自分を正当化する→非難を覆そうとする。
という図式になっている。妄想劇がはじまっている。それは最初に非難されたと思う心が生み出す逃避の姿だ。
延々とその考えがぐるぐる回っているのに気づく。ネットで自然農のブログをたくさん読んだりしている。ほら、自分の正当化だ。ウンウン。これでいいんだ。私は間違っていない!と。
私は明らかに怖がっている。何を怖がっている?自分がやっていることを否定される事か。自分の考えを否定される事か。そして自分自身を否定される事か。
誰も否定してはいないのだ。あのおやっさんは、私を否定はしていないのだ。私が勝手に私は人から私自身を否定されると思い込んでいるのだ。だから身が震えるのだ。
人がほめられたがるのは、自分がここにいていいのだと自分で納得できるからだ。誰もここにいてはいけないと言ってないのに、自分で自分を否定してしまうくせを持っている。なので常に外からほめられる事で安心するのだ。
だがいつまで外から安心をもらっている?そんなものは一瞬で消えるものだ。
恐怖は打ち消せばけすほどふくれあがる。ではどうするか。自分の恐怖と向かいあうのだ。恐怖から逃げない。ただその恐怖する感情の中に黙ってたたずめ。恐怖はすーっと消えていく。
絵:エジプトのネコ
2011年5月22日日曜日
ヒカクスル?
人生の不幸は、比較から始まる。
お兄ちゃんをごらんなさい!
それに比べてあんたって人は。。。
あ、兄ちゃんのケーキの方がおっきいや。。。
また泣いて帰って来て!ケンちゃんより強くなりなさい!
先生のようにえらくなりなさい!
おまえ、テストの点、みんなより下じゃねえか。あほとちゃうか。
おれ、みんなと違ってあほ大学しか受からなかった。。。
あ、おれの給料すくね。。。
私たちは常に、自分以外の人やモノと比較させられている。その習慣は無意識に自分でもやる。それは比較とは向上心を生んで、人生のモチベーションをあげると信じられているからだ。
先生のようにえらくなれ、リンカーンのように偉大であれというけど、それって良く考えたら、「お前はまだニンゲンではない」といわれているようなもんだ。ニンゲンではないから、先生のようなりっぱな生き物になれと言う。その言葉は、生徒自身を先生は見ていないということだ。さいとー君は、さいとー君なのだ。なのに誰かになれと言う。それは暴言である。さいとー君は、さいとー君にしかなれない。
しかし、さいとー君は、センセにアンドー君を見ならえだとか、みんなより点数が低いぞとか、みんなより足遅いぞと言われて、アンドー君を目標にしたり、50点まではとるぞと点数の目標にしたり、ビリじゃダメだと自分に言い聞かせたりする。
そうやってさいとー君は人生の目標をつねに外にある何かにするのだ。大事なことを忘れている。本来さいとー君はさいとー君でしかない。アンドー君にはなれないのだということだ。
なれないものになろうとする。
これほど無益な努力はないのではないか?だから人生は悲劇的なのだ。最初にインプットした何かと比較しろという文化は、後々の人生にまで深く影響を及ぼしている。比較とは諸刃の剣である。いい方のことばかりもてはやされるが、むしろ悪影響の方が大きい。自分の心の中でいつもぶつくさツイッターしている言葉を意識してみよう。
「ああ、またシミがふえた」「もうトシだから」「ウチのダンナったら、サイテー。それに比べてお隣のダンナ様って。。」「あいつ、昇格したのか。。。」「あ、また抜け毛だ。。。」「ああ、また数値が上がっちゃった。。」
シミも、トシも、ダンナも、抜け毛も、昇格もメタボのなげきも全部比較から来る。昔と比べてシミがふえたといい、抜け毛も若い頃のふさふさと比べて嘆く。
テレビやネットでは「お友達に差をつけちゃいましょう」と言うし、「あなた、そんな人生でいいんですか?」と脅してくる。
私たちは外のものと比較し、自分を嘆いたり、逆に比べて誇らしく思ったりする。しかし対象になっているのはつねに「外」なのだ。
ウチの犬のユタは、比較していなかった。今を生きていた。友だちんちのドックフードがゴージャスでも「ウチのドッグフードは貧弱だ」とは思っていなかった。友だちんちにいけば、まずキッチンに走り込んでそのゴージャスなドッグフードをいの一番にむさぼり食ってから、友だちと遊ぶ。ただそれだけだ。彼に葛藤はない。
比較した瞬間、葛藤が生まれる。ああなりたい、こうなりたいとおもう。そこには自分自身の性格が無視されている。その無茶な目標が人生に葛藤を生む。シミがいやなのは、シミがあってはいけないという刷り込みがあるからだ。年がいっていやなのは、若い方がいいという刷り込みがあるからだ。年はいくもんである。あたりまえなのである。それをムリヤリ時間を止めようとするその努力が葛藤を生むのだ。
その葛藤がどれだけ精神的に疲れさせているか考えたことがある?その労力は99%の心労と1%の喜びを与えるだけだ。だがその1%の喜びも、所詮外からの刷り込みによる価値観なので、すぐ消える。
「くほっ、体重へった」とほくそ笑んだ瞬間、
「それだけでいいんですか?あなたそこで満足してていいんですか?」
と心のどこかが言うからだ。
私たちは、つねに比較して、葛藤して、疲れ果てているのだ。
絵「COOPけんぽ/あじさいと妖精」
2011年5月17日火曜日
ハイジョスル?
『排除』する。
おしのけてそこからなくすこと。
この世には色々排除することが多いようだ。害虫を駆除する。雑草を排除する。歯垢を取り除く。ヨゴレを取り除く。カラダの毒をデトックス(毒抜き)する。ウイルスを全滅させる。ガンを摘出する。口蹄疫にかかった家畜を全滅させる。放射能を浴びた家畜を全滅させる。
少しでも野菜に虫がついたら、その場で取り除きつぶす。少しでも雑草が生えていたら、草に栄養取られるから抜く。少しでもヨゴレていたら何のウイルスにかかるかもしれないのでさっと取り除く。少しでもガンが見つかったら早期発見でさっと取り除く。少しでも放射能があったらガンになるので排除する。
自然はものすごい英知で満ちている。すべてのことがお互いに影響を及ぼしあい、バランスを保っている。虫は不自然な野菜を食べている。草が生えるのは、土地のバランスを保つため。
ソラマメに大量のアブラムシがついた。まだ若い柔らかい新芽に集中的に群がっている。そのまま放置したらやがて枯れてしまう。すぐ横に生えているカラスノエンドウにも群がっている。私は右手を下にしてソラマメを上に起き、左手でソラマメをゆっさゆっさとふる。手に大量のアブラムシが落ちる。それをフェンスの向こう側にもっていきポイする。殺さない。フェンスにまでもっていききれないアブラムシは、ソラマメを揺すって地面に落とす。理屈で考えると、落とされたってすぐソラマメに戻って来るはず。
しかしそれ以降、ソラマメにアブラムシはつかなかった。5センチとはなれていないカラスノエンドウには相変わらずびっしりとくらいついたままなのに。どうも私がソラマメについて欲しくないことを感じたようである。
「ちょっとこのソラマメ不自然だけど、まあ、ここのやまんばが食って欲しくないって言ってるから、ほっといてやるか」
ってなぐあいで、私の主張を尊重してくれたのであろう。その後あまり元気のないソラマメではあるが、なんとか実は付けつつある。
ところがこれがアブラムシを殺すとどうなるか。ふえるのである。これでもかとやってくる。生きたままそっと外すと、棲み分けを行なってくれるのであるが、殺すとさらにやってくる。
ここに大きな何かの違いを感じるのである。
排除するという行為は心に内と外を作る。敵と味方であり、いいことと悪いことであり、ソンと得であり、害虫と益虫である。ちなみにてんとう虫は、葉っぱの上でいると害虫であり、アブラムシを食べてくれるので益虫である。ようするにニンゲンの側の勝手な解釈なのだ。
私たちニンゲンは、本当に勝手な解釈によってこの世を滅ぼそうとしている。それは単にシステムが悪いのだというせいには出来ない。私たちの心の中にある排除の意識がこの世のアンバランスを生んでいる。どう見てもニンゲンだけが無知で勝手で地球をめちゃくちゃにしているようにみえる。
石けんなし生活と、草ぼうぼう畑で気づいたことは、カラダも自然もそのままでいいのだということなのだった。
彼らは完全に自然の摂理の中で動いていて、バランスを保つ。その根底に流れているのはいうのも恥ずかしいが、愛なのである。すべてが美しく調和のとれた状態にしようとするこのことすべてが愛なのだ。宇宙の愛。そのことにニンゲンは気がついていない。自分でなんとかしなきゃいけないと思い込み、何かが起ったときパニックになる。その後ろには大きな愛がひしめいているというのに。
排除するという行為は、そのことがイヤだと抵抗していることである。なぜ抵抗するかと言うと、それはイケナイことだと教わるからだ。いったん教わるとその後も「これはイケナイ」という視点でしか見ない。残念なことに、その近視眼的なものの見方が、今の文明を作って来た。今その文明が足下から崩れようとしている。これこそ、宇宙の愛なのかもしれない。そのまっただ中にいる私たちは、自分自身をどうしても見なきゃいけない段階に入っている気がする。
私たちは今、何を排除しようとしている?
絵:「セクシイ川柳」表紙イラスト
大好評の「セクシイ古文」に引き続き、新たなセクシイシリーズ!
2011年5月12日木曜日
いいことしたい!
どうも今日本中に、いいことしなきゃブームがはびこっているようである。
ひねくれ者のやまんばは、いちいち斜に構えてみてしまうところがあるがよ。けんど言いたいから言うぜよ。
ついに恐れていたツアーをテレビで見た。バスで被災地まで出かけていって、ちょこっとボランティアをやり、その足で温泉宿に泊まる。そして次の日に被災地の観光名物をしこたま買い、またバスに乗って帰るというツアーである。
ボランティアというと身構えてしまうが、ちょこっとボランティアなら出来るし、しかも温泉宿泊まっておいしいものも食べられる。そして次の日は買い物をして現地にお金を落としていく。これほど「いいことしなきゃ」を触発させてくれるものはない。
テレビで見る限り、腐敗したさんまを運ぶという(しかもたいした量ではない)1時間半~2時間で終了するボランティアだけのようだった。(ツアー客は41人もいたのだが)ツアー客はその汚れた身体を温泉宿で落とす。さっぱりした所でおいしい料理にありつく。同じボランティアをした仲間と言う意識で盛り上がる。温泉宿としては、客足がへった所に団体でやって来る客はとてもありがたい。そして次の日は、お土産をたんと買いまくり、現地にお金を落としていく。なんと素晴らしい企画なのだ。
ちょこっとボランティアをして、いいことしちゃった気分になって、一仕事のあとは温泉!おいしい料理!そして最後の閉めは、金を落としていいことをする!
いいことしまくりなのだ。「アタシっていい人~」と、自分をほめてあげられる。
だが、もし私が被災地の住人なら
「ふざけるな、おんしゃあ~~~っ!おまえら、こんでいい」って気分だな。
なんともはや、被災地を外から見た人の都合のいいツアーなのだ。そのうちこんな主旨のツアーが出てくるだろうなとは思っていたが、あまりにもあからさまなツアーにあぜんとする。しかしこのツアー、要望が多いので、これからもやるという。ああ。。。
これは被災した人の心をなんとも感じていない人のすることだ。その中心にある思いは「なんかいいことしたい」であり、いいことしている自分をほめてもらいたいのだ。ようするに、自分のことしか考えていないともいえる。
ツアー会社はそのへんの客の心理状況をよく見抜いている。「なんかいいことしたい意識」をくすぐるのだ。これは「なんか楽しいことしたい」と言うものとほとんど変わらない。ディズニーランドに行く代わりに、被災地に行っているようなもんだ。おまけに金を落としてやっているという上からの目線。しかもそれに気がついていない。
ディズニーランドにいくのは、楽しいからやっているという正直な意識の前提があるからいい。しかしこのボランティアは、いいことしているというオブラートに包まれて、肝心の本人の正直な意識を見えなくする。
今、日本中に「なんかいいことしなきゃ」と言う思いが広がっている。それは大切なことだ。しかし、そのいいことは本当に被災地の人のことを考え、吟味して行なうことであり、人を助けにいくということは、どんなに真剣で命がけのことかを肝に銘じた上でやることだとおもう。その覚悟がこのツアーにはみじんも感じられない。
現地の人は「ええ、とても助かります」とニコニコと言う。本心はどうかはわからない。
人はほめられたがっている。
それはこの世にはびこった罪悪感であり、自己嫌悪であり、自己不信からくる。自分はダメなんじゃないか、自分がこの世にいてもいいのだろうか。。。そんな思いが根底に大きく横たわっている。それを払拭してもらえるのは、何よりも人にほめられることである。ほめられると、自分はここにいていいんだ、自分であっていいんだという気持ちになれる。それを実感させてくれることは、何よりも「いいことをすること」なのだ。
けれども、それは本当に相手を思いやってのことか?
いいことをして、いい気分になる。すなわち、自分にとってのいいことをしている事にならないだろうか。単なる自己満足になってしまわないだろうか。
「いいことをする」ことは、とても難しいことなのだ。
今どっちを向いても、とにかくなんでもかんでも、いいことをすることがいいことだというムードがある。あまりにも単純に断定してしまっている。やまんばが被災者だったら、こんなことされたくないなあと思うシーンもテレビで見かける。
いいことをする前に、
「これは本当に相手にとって救いになるのだろうか?単なる自分の自己満足ではなく。。。」
ということをまじめに考えた行いなら、それは本当に素晴らしい行為なのだと思う。
かくいうやまんばもほめられたい。だからせっせとパンを作り、できそこないの野菜をもって、近所の友だちにむりやり押し付けて来るのだ。しかしこれでもやまんばは、自分が「これは単なる自分の自己満足である」という自覚をはっきり持っている。(自覚してたら、なんでもええんかい!)
今の時代は、ほんとにみんな寂しいんだなあ。。。
絵:メディアファクトリー新書「こんなに違う!世界の性教育」カバーイラスト
2011年5月7日土曜日
失敗することに意義がある
私らの人生の中で、不幸の一つは、失敗しちゃいけない、と思っている事だ。失敗する事は悪で、そんなことする人はハズカシーし、バカだし、空気読めないってことだし、「それって、どうよ」だし、ニンゲンとしてサイテー、と思い込んでいる。
ところが、そう思っているのは、やっちまった本人だけで、まわりは、「まあ、しゃあないか」だし、「あるある」だったりするし、あげくに、「え?なんか失敗してたの?」なんて言われて、なんてことはない、本人だけがイジイジウジウジ考えているだけだったりする。
しかしだな。人生の学びは、失敗から始まるのだ!
失敗することは、「あれ?」と自分の行為を気付かせるのだ。失敗しないでどんどん進んでいくと、その人はちっとも学ばないのだ。
パン焼いていて、一つだけおかしな形のものが生まれる。
「なんで?」とおもう。「あはは、失敗しちゃった」で、わらってごまかすことも出来るが、じーっとそれについて考えると、「あ」と気がつく。今まで気がつかなかったものに気がつく。これが失敗の醍醐味だ。(たとえがちっこすぎる)
だが今の文化によると、失敗しちゃいけないムードが漂っているので、なかなか失敗した事を直視できない。
「あああ~~またやっちゃった。このあいだも同じ事でやっちゃった。ああ、バカバカバカ~ん。。」と、なる(だけである)。
要するに、これは「失敗した」事だけに心がとらわれていて、肝心の「なんで失敗したのか?」に向かっていない。なぜかというと、「失敗しちゃいけない」文化だからだ。
じつは、失敗を直視できないのは、自分の姿を見たくないのだ。明らかに変な事をしてしまった自分の、その姿をもう一度記憶に蘇らせる事のつらさ。そしてそれを吟味し、どこがどのように間違っていたのかを探る事のおそろしさ。この恐怖が、失敗した内容と向き合えない理由だ。
なので「あ〜やんなっちゃった。あ〜ああ、驚いた」だけですましちゃうのだ。これじゃいつまでたってもちっとも本筋に食い込めない。
「ああ、やっちゃっった。アタシってばか!」と言い続けていると、その先に三つの道がある。
その1:「バカバカ」と言い続ける事に快感をもよおし、その中にいつまでもひたり続ける自己憐憫への道。
その2:「バカバカ」と言い続けているのがそのうちつらくなって、失敗した理由をさがし始める失敗正当化への道。そうするとたいてい、その失敗を気付かせてくれた相手への非難が始まる。「何よ。アタシだって好きでこんなんじゃないわよ!」と開き直る道。
その3:「バカバカ」と言い続けるのに飽きて、他に意識がいく。おまんじゅうをたべて、ほっこりしたりする。
かくして失敗したことは、意味をなさなくなる。
これはとてつもなく超個人的な問題である。セーフがシステムを作り替える次元ではない。とてつもなく大きな人類の、超個人的大問題なのである!!
ひとまず自分の失敗を許そう。知らなかったのだ。しゃあないのだ。んで、ゆっくりと、自分がやった行為を振り返ってみよう。だけど思い出そうとした瞬間、「やばい!」と感情が走る。ほっぽっとこう。そんな感情は無視する。もしくはウチュー人が地球にやって来て、何かやっていると考えてみてもいい。そうすると感情的にならず、「あ、あんな事してる。アホやなあ」と人ごとになれるやも知れぬ。ようは、自分の行なった行為を客観的にみる習慣をつけるだけの事だ。主観でみるから感情が動く。非難ゴーゴーになる。。。非難しない!
世の中のいろんな犯罪や精神の病いは、こういう自己非難や自己嫌悪や自分を深く罰する感情が、ことを肥大化させて起るのではないかとフんでいる。すべての事の起こりは、たわいもないすれ違いだったりするのではないか。この世の大きな問題は、それぞれが深く傷ついた心が出発点になっている。それをいやすのは薬でもなく、宗教でもなく、セミナーでもなく、壺でもない。誰でもない、自分自身なのだ。ぐちゃぐちゃに絡み合った糸をほぐすのは、じっくりと自分をみる静かな時間なのだ。私たちの文化にはそれがない。(かつてあったと思う)
地球に来たウチュー人は、自己流でなんかやっている。じーっとその行為をただ見つめる。何の感情も入れずに見続ける。すると周りの人や状況も見えてくる。立体的にみえはじめる。ああ、その方向は違うのに。なんて言ってる自分がいたりする。そのとき、ハッと何かに気がつく。あ、私が足りなかったのはこれだったんだ。。。
宇宙の英知はそんなものをちゃんとプレゼントしてくれる。私たちに必要なものは、静かな時間だ。誰も非難しない、誰を正当化もしない。ただ事実をありのままにみることだけがすべてなのだ。
そのためには失敗する事に意義がある。失敗はすばらしいことなのだ。
絵:メディアファクトリー新書「2100年、人口3分の1の日本」
おっかねえタイトルですが、内容は真面目で前向きですよ!
2011年5月3日火曜日
セーフは言った
「だいじょぶ、だいじょぶ。ぜーんぜん、でてないから」
と、セーフは言った。
「んなわけないだろ。なんか隠しているに決まっている」
と、センセは言った。
そのうち、ある時からセーフは、
「やっぱし、だいじょぶじゃなかった」
といった。
「ほーら、みてみろ。ほんとはでてるんだろ?」
というと、
「うん。ほんというと、いっぱい出てて、とっても危険なの」
という。そして
「ここから先はもう入って来れないようにするよ」
といった。
「やっぱりそーか。で、ほんとはもっとでているんだろ?」
「うん、ほんとはね。だから、基準値をもっと上にするよ。そうすると、だいじょぶだから」
「え!?基準値を上にしたからって。。。。」
センセは泣きながら学校を出た。。。
他のセンセは言い続ける。
「事態はとんでもないことになっている!」
それをしったおかあさんも、
「事態はとんでもないことになっている!」
それを知った子供たちも
「たいへんなことになっている!」
そうやって、みんなの心が沈んでいくのでした。
事実を追究することはだいじなことだ。にじり寄って、事実を吐かせるのは大事なことだ。しかしいつのまにか、その事を追求することだけに忙しくなって、大事なことを忘れている。その事実を、心はどう受け止めればいいのだ?
本当のことを追求しました。とんでもない事態です。よくここまでセーフを動かしました。よくできました。はい、これで私の仕事は終わりました。となるだろうか?
「先生。俺はガンなんだろ?」
「いえ。ちがいます」
「嘘をつけ!ほんとはガンなんだろ?」
「はい。実はそうでした」
となったとき、
「ほーら、やっぱりガンじゃないか!」
と、天下とったみたいな気分になって喜んでいるようなもんだ。
問題はそっから先だ。
センセは、机の前でパソコンに向かって恐怖をあおる。セーフもテレビカメラに向かって恐怖をあおる。どっちを向いても恐怖をあおる情報ばかり。今、日本の人々は、大きな不安を抱いて生きている。これをまともに受け止めるならば。
だがこれをまともに受け止めない奴は、やまんばみたいなひねくれもんぐらいしかいない。
稲博士が、ちょっとあびるぐらいなら、だいじょぶ。むしろ健康に良い。と言ったのは、ちょい前の話。そのときうおー!っと、情報が広がった。それからどこかのセンセが、ばかじゃねえか?と言った瞬間、シュン!と一瞬でしぼんだ。その後、その名前を出すと、村八分もん的な空気が。そしてだーれもいわなくなった。今、その名前には、うさんくささが枕詞として入っている。
恐怖は、人をコントロールする。「ああ、お先真っ暗だ〜!」となった時、「こっちに光があるよ」と言われたら、誰だって、その光に向かって歩こうとする。たとえそれが、戦争や隔離や支配に向かう光であっても。
だからこの今の恐怖オンパレードの状況をよく気をつけてみていて欲しい。自分も一緒になって恐怖のズンドコに陥らないで欲しい。何かその情報の下の方にはうさんくさいものがあるかもしれぬ。特にセーフの見解。最初はだいじょぶといっていたのが、あるときから「たいへんです」というようになった。それはセンセが追求したからだ、といえるだろうか?ブログで?講演会で?記者会見で?そんな事で動くセーフだろうか。
実際、原発の前まで行って来て、全然放射能が出ていないのを確認して来た人もいる。いや、今にとんでもない爆発が起る、という人もいる。
どれがいったい本当の情報なのだ?それを固唾をのんで見守っているのか?ずっと?びくびくしながら?
その心は親にも、子供にも、まわりにも伝染する。そしてあげくの果てに「放射能がウツル」と子供に言わせる状況になっている。誰がそういわせたのだ?大人なのだ。大人がびくびく怖がっているから、それが子供にウツル。病気になるんじゃないかと心配するから、そんな気分になる。病いのほとんどの要因は、心から来る。ガンになるガンになると思えば思うほど、そっちに引っ張られていく。あげくに本当にそうなってしまう。
心は、勝手に暴走するのだ。人はおかしなもんで、追求することや恐怖することが、いつのまにか快感になってしまう。もっともっととなってしまうのだ。その快感が暴走するままにしておいたら、行き着く果ては悲惨しかない。心とはそういう厄介な代物なのだ。
それを止められるのは自分しかいない。いや止めようとするのではなく、恐怖を感じている自分を知っていることだ。いつも自分の感情に気がついていることだ。
その暴走する感情は、本当の自分ではないのだ。
絵:「へるすさろん」カットイラスト
2011年5月2日月曜日
畑は自然が作っている
今、畑の中にはカラスノエンドウがひしめいている。去年はこんなにいなかった。毎年草の姿が変わっていく。おもしろいことに、フェンスの向こうには、カラスノエンドウは全く生えていない。ぴっちり線で引いたように、分かれているのだ。まるでカラスノエンドウが
「ああ、ここ、そろそろ畑にしておいてやるか」
と、やまんばがせっせと畑にしようとしているのを認めてくれたかのようだ。なぜなら、豆科の植物は野菜に必要なチッ素を、たらふく固定化してくれるからだ。
ふふふ。。畑にうんと栄養を入れてくれよ~。
二つの畝がなんだか黒い。
近寄ってみると、カラスノエンドウに、おびただしい量のアブラムシが。それが真っ黒に見えていた。その畝はあっという間に茶色に変わった。すべて枯れていたのだ。他の畝の上のカラスノエンドウにもアブラムシはついている。しかし緑色のままだ。
じつは、この2つの畝には、畑始めた頃に未完熟の生ゴミが入れられていた。臭気を放っていたが、その上にトマトの苗を入れると、トマトの苗は巨大化した。ちょうど同じ頃、別の畝に別のトマトを植えていたので、その差は歴然。ぶっとい幹にぶっとい葉がついた。異様な姿をしていた。そのうちすごい量の虫がついた。でっかいトマトもなった。
カラスノエンドウは、その下に入っている未完熟の生ゴミを自然に返すお仕事をしているんじゃないだろうか。
カラスノエンドウさんは、下から異物を吸い上げ、アブラムシさんに言う。
「あぶらむしさん、あぶらむしさん、私を食べておくれ」
「あいよ、がってんでい」
そのエキスをアブラムシさんに吸い上げてもらい、アブラムシさんも死に絶えていく。。その屍は畑に蓄積し、土となり、畑を潤す力となる。
今そこには、大量のつくしが生えている。つくしは一年分のカルシウムを補給すると言われて、昔はその時期によく食べられていたようだ。
つくしと言えば、スギナ。畑をやる人にとっては天敵中の天敵。「畑が酸性の証拠だ!」と、中和させるために石灰をまく。だがその石灰によって、地面は固くしまってしまう。そしてまた耕すという連鎖を繰り返す。
やまんばは、そんな畑を「カルシウム入れてくれてんだなあ~」と、ほっておく。
その2つの畝は、未完熟の生ゴミによって出来た猛毒の亜硝酸窒素を土から取り除き、そしてなおかつカルシウムを補給してくれている、と解釈するのだ。
植物はどうも、土から栄養を取ると言われているが、別な視点から見ると、彼ら自然にとって一番バランスのよい自然に返すために、自ら不自然なものを吸収しているのではないかと思われる。その不自然に大きくなった植物たちを虫が食べる。彼らのおなかの中で不自然なものは消化され、ふんになり、死骸となってこの大地に帰っていくのだ。
それをみた人間は、
「ワオ!大きい野菜が育った!」とおもい、
「ゲ!虫がついた!」と殺す。
という事を繰り返しているではないかと。
だから、有機肥料でも、化学肥料でも、大きく育った野菜には、かならず、虫さんというおまけがついてくる。だからそこに農薬や、身体にやさしい有機的な薬が使われる。
私はどっちもやらない。どっちにしたって、なんだか自然な感じがしない。そこにあるという事を、あるがままにしておくのが一番な気がする。自然の英知は私たちのおつむでは考えきれないものである事を、私は常に感じていたい。
人間は、目の前でおこっているの出来事を、いつも自分勝手な解釈でしかみていないように見える。福島県の原発問題もそうだ。こんな厄介なものをまだ維持しようとする。昨日もあるおじさんにあった。彼は原発に係わるお仕事をしていた。
「1000年に一度の地震が来たんですよ!もうこんなでっかいのは、1000年後にしか来ない」
だから本間にまた新たな原発を作るのだそうである。
1000年に一度の地震が来たから、もう来ないと考えるか、1000年に一度の地震が来たから、何かが変わろうとしているんじゃないか?と考えるかは、その人が立っている立場によるんだろうな。それは地面を揺らしている張本人の地球さんを無視した、人間よりの考えに過ぎない。
ここに来てこんな大きな問題が持ち上がっている。私は、その解決法は政府とかシステムとかを変える事によって世界が変わるとは思えない。これまででも何度も変えて来たのだ。だがその結果がこれなのだ。変える方向がどこかちがっているから、こんな結果になったのではないか。たぶん、そっちじゃないのだ。
絵:カットイラスト