2011年5月24日火曜日

畑けちょんけちょん





「あんたんところの畑、こないだ見て来たよ。ありゃあすごいねえ。うん。ひどいもんだあ。野菜っちゅうのんはよお。こーやって、きれーいに草とって育てるもんだあ。まあ、畑っちゅうのんはその人の性格が出るっちゅうからよお。あんたんちはよっぽどだらしねえんだろうなあ」
と、近所で畑をやっているおじさんは笑いながら言った。

言ってることは、かなりけちょんけちょんである。しかし笑いながら言う。バカにした笑いではない。何かこう「あんたのこたあ好きだよ。けんどありゃないやろ」というかんじ。人は小バカにしているのかしてないのか、瞬時に分る。んだもんで、こっちも笑って答える。

「いんやあ~。すんませ~ん。へえ、ひどいもんで。え?ウチ?もう、見られたもんじゃあございやせんよ」
てへ、と頭をかきかきその場を去る。

ここいらの畑は見事なくらい慣行農法と有機農法のミックスである(あたりまえか)。畑は、リタイヤしたおやっさんのホコリの象徴なのである。草一本畑にハヤカしちゃあなんねえ。農薬かけるときゃあ、ちょいと後ろむいて、誰にも気づかれないようにちょちょちょいとすます。
するってえとどおだあ。あっという間にぐっとでっかくもりもり育った、青々と、つやつやとした野菜が出来上がるってえもんよ。隣近所その見事さを競い合うってわけさ。

そんな土地柄だからやまんばの畑は物笑いの種になる。そんくらいがちょうどいいんだと思うんだ。アホがひとりぐらいいた方がゆったりする。そんでもって嬉しいのは、そのあほうをそのまんま受け取ってくれていることだ。


でも、問題はやまんばの心の中なのだ。
どこかで罪悪感がうずきはじめる。心の中で正当化が始まる。非難されたと思っているのだ。もしかしたらこれはいけない事をしているのではないか?と自問自答始める。自然農やりたいと言い出したのはこの私。そのせいで、いっしょにやっているぱぱさんちに貧そな野菜しか渡せない罪悪感。有機農法やったら、うんとりっぱな野菜が育てられるのに!なのに私の勝手でこんな状況にしてしまっている。。。
するとその罪悪感の苦しさから逃れるために、今度は未来を想定し始める。
そのうち大きな野菜がとれて、みんなをよろこばせるんだ。そしたらあのおやっさんにも見せて、私のやり方の正当性を見せつけるんだ!

非難されたと思う→罪悪感におちいる→苦しくなる→自分を正当化する→非難を覆そうとする。
という図式になっている。妄想劇がはじまっている。それは最初に非難されたと思う心が生み出す逃避の姿だ。
延々とその考えがぐるぐる回っているのに気づく。ネットで自然農のブログをたくさん読んだりしている。ほら、自分の正当化だ。ウンウン。これでいいんだ。私は間違っていない!と。

私は明らかに怖がっている。何を怖がっている?自分がやっていることを否定される事か。自分の考えを否定される事か。そして自分自身を否定される事か。
誰も否定してはいないのだ。あのおやっさんは、私を否定はしていないのだ。私が勝手に私は人から私自身を否定されると思い込んでいるのだ。だから身が震えるのだ。

人がほめられたがるのは、自分がここにいていいのだと自分で納得できるからだ。誰もここにいてはいけないと言ってないのに、自分で自分を否定してしまうくせを持っている。なので常に外からほめられる事で安心するのだ。
だがいつまで外から安心をもらっている?そんなものは一瞬で消えるものだ。

恐怖は打ち消せばけすほどふくれあがる。ではどうするか。自分の恐怖と向かいあうのだ。恐怖から逃げない。ただその恐怖する感情の中に黙ってたたずめ。恐怖はすーっと消えていく。


絵:エジプトのネコ

2 件のコメント:

  1. まいうぅーぱぱ2011年5月27日 23:04

    いいのよ。あそこは!
    実験畑なんだから!!
    目的が違うのさ!

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  2. あじがどー!
    そーいってくれると心強いのだあ〜!

    自己嫌悪、もう、ほんとにソツギョーしたい。。。

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