2011年4月26日火曜日
オンステージ!
彼はにやっと笑ってこう言った。
「よし、ステージに草はやかそう」
「は?」
私とダンナは口をあんぐりとあけた。
それから舞台美術家の頭の中に、つぎつぎとイメージが膨らんでいった。
「まわりを全部黒布で覆ってね、真ん中に一坪分の草原を出現させるんだ。その上に、アーティストが裸足で立つ。どうよ!」
彼の名は江頭良年。彼が手がけたダンスステージは数知れず。その道何十年の大ベテランの有名な舞台美術家に、あろう事かわしら夫婦は相談を持ちかけてしまった。
さあたいへん。やまんばはそのときから草担当になってしまった。
頭ばっかりが先行して遅々として進まぬ私の行動に業を煮やして、ベテラン自らが率先して舞台を作ってくれた。畑に1坪分のコンパネを広げ、その中に次々と草を入れていく。草なら任せておいてくれ。畑になんぼでもはえちょる。二人で汗をかきかきスコップで草をひっぺがしては入れる。1時間あまりで完成。やった!簡単じゃん!。。。と、おもった。
次の日。やまんば、意気揚々と畑に行く。
枯れてるじゃん。
見事に全部しおれていた。すでに枯れている草あり。草って強いんじゃなかったっけ?
それから水をかけまくる。次の日にチェック。元気なし。山のように水かける。また次の日チェック。ついに枯れ切ってしまう。
。。。どーすりゃいーのだ?
それから奮闘の日々が続く。
雑草のように強く生きる、なんて言葉があったが、雑草はほんとはデリケートなのだ。環境が変わると、
「え~~~~っ、聞いてなーい!」と、へそをまげる。
しかし雑草にもいろんな種類がある。やまんばは、畑の中に草たちの特徴をじーっと眺めた。あ、これいけるかも、と思うものたちをスコップで土ごとひっべがしては、バケツにはった水に根っこをジャボンと浸し、しめらせてからコンパネに置いてみるという実験をしてみた。すると生きているもの、しおれていくもの、しばらくすると機嫌が直るもの、などがあるのを知る。それで次第に数ある草たちの中から、いかせるものが選択された。
それから敷き詰めながら、裸足で上がれるように、手で、素足で押さえながら、感触をチェックをする。裏は杉山。草の中には枯れたギザギザの葉っぱやとげとげの種たちがまぎれている。とげとげのスギの葉っぱを歌っている最中にふんずけたら、えらいこっちゃ。
大小さまざまな草がぎっしり詰められ、美しい姿になった。やまんばはひとりほくそ笑む。我ながら美しいぜ。。。
そして当日朝、車に積み込む。。。。のはずだった。
「重い!」
なんと、最初の枯れたトラウマで、土と水がおもいっきり入れられていて、コンパネはとんでもない重さになっていた。
「こんなに入れて、バカじゃねえか!?」
ああ、せっかく美しくレイアウトされていた草たち。。次々とひっぺがされてビニール袋に詰め込まれる。ぶーぶー文句を言われて泥土でくちゃくちゃになった草たちをなくなく運ぶやまんばであった。それにしても相変わらず、アホなやまんばであった。。。
さて気を取り直して、本番のステージ作り。
何日も係わっていた草たち。レイアウトは頭に入っていた。ばんばん詰め込む。草のステージはあっという間に出来上がっていた。舞台美術家江頭さんが、草に特殊な色のシートでスポットライトを当てた。ばっと緑が広がる。
高尾の草たちはその瞬間、スターになった。
そしてオンステージ。
私は受付で外からガラス越しにコンサートの様子を見ていた。音はそんなに聞こえなかったが、なんだかとっても華やいで見えた。床絵美さんもSANPEさんもとっても楽しそうだった。
コンサートが終わって、出て来るみんなの顔が嬉しそうに見えた。
「楽しかった~」といってくれる。ああ、やってよかったなあ。
ステージをたたんでいると、草をお持ち帰りする人が続出。高尾の草は都会の人々にもらわれていった。
出演者、オオイヌノフグリ、ギシギシ、ヨゴレハナネコノメ、ニリンソウ、ヘビイチゴ、カヤ、ヒメジオン、クローバー、フキ、ヨモギ、ホトケノザ、ナズナ、クサイチゴ、カキオドシ、その他、名が分らない草たち。貴方たちのおかげで、とっても素晴らしい時間を頂きました。ご出演ありがとう。そしてお疲れさまでした。
そしてそして、みなさま、お忙しい中、この度のジョイントコンサートにお越し下さいまして、まことにありがとうございました。
絵:「けんぽ」表紙/アフリカの草原
2011年4月21日木曜日
当日でもオッケー!ぜひお越し下さい!
アイヌの若手歌い手床絵美さんと、樺太アイヌのトンコリの継承者SANPEさんのジョイントコンサートが、いよいよ明日に迫りました。今回はちょっと違います。アイヌの伝統音楽が、新しい演出によって新たな姿に変わります。ちょっとないですよ〜。見応えのあるアイヌの夕べをぜひおたのしみください。
まだお席が空いております!みなさまお誘い合わせの上、どんどんお越し下さい。おまちしておりま〜す!
アイヌ伝統音楽ライブコンサート
『Ainu New Wave -床絵美 X SANPE-』
期日:2011年4月22日(金)18時〜19時30分
会場:EMON PHOTO GALLERY
入場料:3500円 1drink付き
当日、直接会場にいらして下さい。
お待ちしておりま〜す!
2011年4月20日水曜日
私たちは変転する
ここのところ、毎日地震がある。
毎日地震があるってすごいことじゃない?でも毎日あるのだ。揺れるたびに、「あ、地震だ。。。」と身構える。これが毎日。生まれてこのかた、こんなに地面が揺れているのを味わった事がない。地面ってどんと腰を下ろしてじっと動かないもんだとおもってた。それが、頻繁にぐらぐらゆれる。今までの常識の変換を迫られている。地面は動くものだと。
千葉から東側を震源とする地震の揺れは、ズズズ。。と小さな揺れのあとに、ぐらぐらと大きなのがきて、それからまた揺れては静まるという一定のリズムを繰り返す。まるで水の中に石を落とした時の波紋のようだ。私たちは水のような地面の上に住んでいるのだ。
最近テレビでは「安心安全に。。」という言葉が呪文のように繰り返される。進まない復興、安心できない状態の原発、今も落ち着かない地震。足下が揺らされている現実を、言葉で安心させようとするかのようだ。
地面が揺れると、無意識に足で踏ん張ってみたりする。力入れて踏ん張ると地面の揺れが止まると思っているらしい。しかし効果はいまいち。(効果あるんかい!)
というように、人はなんとか安心で安全で安定する状態をほしがるのだ。そうであってくれないと、死という恐怖を思い起こさせるからだ。
だが私たちは一度でも安定した状態にいた事があるだろうか。今この瞬間にもすべては動いている。私たちのからだの中の細胞や原子は今も凄まじいスピードで変化をしている。地球も太陽のまわりを巡りながら、自らも回っている。その太陽系は銀河のはしっこで回っている。そのスピードたるや!樹々はどんどん芽吹き、地面から植物が芽を出し、葉を広げ花を咲かせ、実を付け、子孫を残しつつ、自身は枯れて土となる。やがてそれは水となり、空気に変わる。
いったいいつ、とどまっているのだろうか。畑に咲きほこるカラスノエンドウは、その姿をひと時もとどめてはいない。私たちがそうだとおもっている「カラスノエンドウ」とは、彼にとってただ一瞬だけのものだ。彼はやがて枯れて土となり、水となり、気体になるのだ。どれがか本当のカラスノエンドウなのだ?本当は気体の姿が「カラスノエンドウ」だったりするのではないのか?
このように安心安全安定は、人間がそのようにしたいと思っているだけであって、そんなものは存在しない。地面は動くもので、人生は変化するものなのだ。今それを知る事を要求されているのではないのか。すべては流転して、決してとどまる事を知らない。私たちが感情的に要求する安心安全安定、そしてとどまることは、すなわち「死」なのだ。私たちが一番恐れている死なのだ。
生きているという事は、ひたすら変化しつづけることなのだ。その変化をあるがままにすることが、本当は心の安泰になっていくのではないか。止まっていなければいけないと思うから恐怖が走る。安定はないのだと知れば、力入れて足で踏ん張らなくなる。よけいな労力も使わない。
このさい、いっしょに揺れていよう。
絵:カットイラスト
2011年4月17日日曜日
厄介な心
心という代物は、私達にとてつもない影響を及ぼしている。その影響は、言葉で言い尽くせない。こんなに便利な時代になって、こんなに医療が進んでも、人の病気は全くへらないし、人の心は幸せになっている様子もない。むしろ、精神的な病いがふえている。
コンビニでおいしーケーキが安い値段で買えちゃって、わ〜い!ってよろこぶ。だが食っちまったら、その喜びは終わってしまう。その喜びをまた得るためにまた買う。そしてまた消える。大人買いする。結局食べ過ぎて太る。太るとやせなきゃと思い、ダイエットする。ダイエットしてもうまくやせられない。だんだん身体の調子が悪くなる。病院にいく。医者が病名をくれる。薬をもらう。心はこの病気が治れば、またあのおいしいケーキが食べられる、と考える。病気が治る。コンビニでケーキを買う。また食べたいから、また買う。足りないので、大人買いする。太る。ダイエットする。ストレスたまる。食べたら吐く事をやってみる。すると身体は食べると吐こうとする。そして。。。。
こんな事をやっている犯人は何だ。心だ。心はとてつもなく私達に「なんかしろ」と訴えてくる。そしてそのいわれるがままに行動すると、そんなに幸せじゃない方向に向かう。心は常に動き回って、あっちじゃないこっちじゃないと私達を翻弄する。それに気がつく事はとても大事だ。
コンビニでケーキを買う。おいしくって、また買おうとする。その時、「あ、買おうとしている私がいる」と気がつく。心がほしがっているのだなと気がつく。それだけでいいのだ。すると心はそれ以上進まなくなる。
誰でも、誰にも知られず悪さするのは楽しい。しかしその悪さは、誰にも見られていないからムフフ。。とやれるのであって、誰かにそのさまを見られてしまうと、
「え。。。?見てるの?見ないでよ。。」
と、ムフフの快感が得られなくなってシラケてしまい、なんだか悪さ出来なくなる。
どうも心はこのようなうごきをしている。私達は心が勝手気ままに動くことに、私達自身が振り回されているようなのだ。
仏教の教えでも、無心になれとある。無心になる理由は、そんな心を追いかけるなといっているのだ。そんなどうしようもないうごきをする心にとりあうなと。心とはそういうやんちゃなものなのだ、それを追求しても意味がないのだということを理解する事なのだ。
たぶん仏教は最初はその事も教えていたかもしれない。しかし今はその無心になるためのメソッドだけが残ってしまった。念仏を唱えるとか、決まった言葉を言い続けるとか、梵字をみつめるとか、一つのシンボルを見るとか。しかしそれは単なる無心になるための力づくの方法であって、それをやっていたって、やがて心はぱあ〜ん!と飛び出して、またはしゃぎはじめる。
コントロールする事ではない。それを理解する事なのだ。知ればそれでいいのだ。
やまんばが自分の身体を信じるのは、この英知の結晶である身体にすべてを委ねるということをやってみたいのだ。この身体に敬意を表したいのだ。それがあるがままのすがたなのじゃないかとおもうのだ。
絵:TVぴあカットイラスト
2011年4月13日水曜日
背負いきれない現実
ニューヨークから日本に戻って来て、若者たちにあった。彼らは私が話すスピリチュアルのことや2012年の事など、何でも同意してくれる。彼らはこの物質文明には何か他の存在があると言う。そしてこの文明を信じていないともいう。今のこの文明にたいする批判や疑問のようなものももち備えていて、やまんばと同世代の人たちより、よっぽど話が分かる奴らだった。
ところが今回未曾有の大惨事が起り、彼らはとても現実的である事がわかったのだ。放射能の勉強を徹底的にし、どこらへんまでが安全でどこから危ないのか。子供たちにはどんな影響が及び、どんな未来が想定されるのか。
やまんばはなんだか不思議であった。目に見えない世界を信じ、その存在を理解していると思っていた彼らは、今その目に見えない放射能には反応するが、神とか、霊とか、妖精とか、宇宙人とか、ディーバとか、宇宙の摂理とか、てんで吹っ飛んでるみたいに見える。
自分の身を守るのは自分しかいない。子供を守るのは自分しかいない。そう思っているように見える。本気で守ろうとしているようにみえる。だが本当に自分の身は自分で守る事が出来るのだろうか。子供の身を自分で守りきれるのだろうか。いま子供が泣いている事の理由さえ分らなくても?
今までの自分の人生でも、自分を守ってこれたのだろうか。病気をコントロールできたのだろうか。仕事もコントロールできたのだろうか。こんな未曾有の大惨事が起ったのだ。それをカバーできると?将来自分の子供ががんにかかるかどうかを自分の責任にする事は、あまりにも酷な話だ。その責任はあまりにも大きすぎて、その大きさに、子供たちよりも、親の心がつぶれてしまうのではないか。そんなおせっかいな心配をしてしまう。
さらにふしぎなことに、彼らはこの文明を信じなくても、学者のいう事は信じるようだ。テレビのいう事は信じなくてもえらい人のいうことは信じるようだ。放射能が危ない、こんだけ危ないと。だがそもそもこの文明を作ったのはそういう彼らだったのではないか。ある法則を誰かが作ると、それをもとにあらゆる法則が出来る。だが元々が間違っていたらどうなるのだ。間違いに間違いがかさなってどんどんヘチへ向かう。気がついたら、とんでもなく違った方向に立っているとしたら。
このさい、この物質文明を信じないのであれば、徹底的にすべてを疑おうではないか。
アホなニンゲンが、アホを徹底したものを作ってしまったのだ。今それが手に負えなくて、おおさわぎしている。ニンゲンが偉大だからこんなものを作ったのではない。自然の摂理で出来上がったものを、自分が作った気になっているだけだ。
すべてを守りきれるものではない。すべてを背負いきれるものでもない。こういう事態になったのも、何かの意味がある。今この瞬間にも日本の北の方で何かが燃えている。ものすごいエネルギーの分裂が起っているのかもしれない。そのエネルギーはいったいなんだろう。ひょっとしたら、今この地球の中にもうひとつ別の宇宙が出来つつあるのかもしれないではないか。
私は、自分が今までもらって来た知識や、この地球上に現在あるアカデミーの知識の中だけで、ものを考えるのはやめようとおもう。そんな小さな知識で収まりきれるレベルではないかもしれないのだ。
私たちの中には、頭で考える知識ではない、何かもっと他の英知がある。
やまんばには、それに早く気がつけよ、とうながされているように思える。
絵:カットイラスト/TVぴあ「ミチバチのささやき」
2011年4月11日月曜日
自分の身体を信じる2
このごろテレビのコマーシャルでは、信じてる信じてるとうるさい。
この「信じてる」ということば、案外くせ者である。一見心地よい響きに感じるが、その心の奥には、「信じたい」という心理がひそんでいる。ニッポンは強い国、そう信じてる、のは「そう信じたい」のであり、「そう信じているんだから、あんた、裏切るなよ」と言うオドシもひそんでいる。だからそんなコマーシャルを見るたびに、いや〜な気分になる。あんたに脅される筋合いはない。ほっといてくれ!
私は、人に「あなたを信じている」とはいわない。なぜならそれは相手に対して失礼だと思うからだ。その言葉の後ろに「だから裏切るなよ」と入っているからだ。
ということは、自分で「自分の身体を信じる」宣言をした私は、いわば、自分の身体に対して「お前、信じてやってんだから、裏切るなよ」と言うオドシをかけているともいえる。人には言わないけれど、自分に対して失礼な事をやっているわけだな。
ふつー、人が自分の身体を意識するときは、痛〜い思いをしたときや、異性を意識したとき、または老いを感じたときなどである。だいたいが表面的な変化に注目する。「いってエ〜」とか「あ〜っ、体重ふえたあ〜!」ってな事は気がつくが、あんまり、自分の身体がひたひたと何かしらを治している瞬間を感じる事はない。なぜか。黙っているからだ。だけど、おもいおこせば、あの時のケガも、あの時の病気も、いつかは治ってしまっている経験はないだろうか。それはほんとにお薬やお医者様が治しただけなんだろうか。私たちはもっと手前の、もっと素朴な所に注目をするべきじゃないか。身体はひたひたと自身で治しているのだと言う事を。
NASAの医学顧問でミズーリ大学の生命科学教授であったトーマス・D・ラッキー博士が、ある事に注目した。地球の大気圏外に出て大量の放射能を浴びて帰って来た宇宙飛行士が、元気になって戻ってくると言う事実。理屈で考えれば、放射能はとてつもなく恐ろしいもんである。それを大量に浴びたら、とてつもない病気にかかってしまうはずである。それが逆に元気になって戻ってくる。これはどうゆうことか。10年の研究の結果、微量放射能という強烈な刺激効果により、自らの身の防衛のための遺伝子がふえて、結果的に生体活性化に繋がる。生体防御にかかわるあらゆる遺伝子が活性化し、抗酸化酵素や、各種ホルモンが作られると考えられる。のだそうだ。つまり何も刺激を与えないと、そのままのんべんだらりとするが、「こら〜っ!起きろーっ!」とカツ入れられると、シャキコーンと起き上がるのらくら野郎(つまりわたしのこと)と同じ原理か。
と言う事は、麻疹にかかると免疫を付けるのと同じで、病気になるとだんだん強くなっていくのかもしれない。昔病気がちだった人が大人になって強くなる話はよく聴く。放射能は一粒で細胞を破壊するが、それを治癒するために爆発的な新たな細胞が生まれる。そしてどんどん環境に適応していく。それが私たちのからだの中でひたすら行なわれている事なのかもしれない。
そう考えると、私たちの身体はとてつもない英知を携えて、今まさに生きているのだとおもえない?このパソコンを打っている最中にも、莫大な量の細胞が生まれては死んでいく。そうやって巨大なコンピューターは人知れず働いているのだ。ああ〜コーフンするぜ。
と、考える人はあんまりいない。しかしそれを意識するのはとても大事な気がするのだ。
私たちは、何か起こったとき、「たいへんだー!」となる。そして前と同じ状態に戻したいと言う衝動に駆られる。前の状態とは「なにごともなかったこと」だ。しかしその何事もなかった事の後ろには、ひたひたと大自然である私たちの身体が働いてくれているが故の「なにごともなかったこと」なのだ。私たちの身体は、とてつもない大自然なのだ。いまこのここにあるものが、(醜いとか、太っているとか、そんな事は枝葉の部分なのだ)偉大な存在なのだ。私たちの身体、即地球の原理と同じであり、それは宇宙の原理でもある。この偉大な大自然を意識しないのは、なんとももったいない事なのだ。
絵:「ホリデーワールド」カットイラスト
2011年4月10日日曜日
自分の身体を信じる1
やまんばは、2年前の誕生日からある事を実験し始めた。石けんなし生活の事じゃないど。それは、自分の身体を信じる、というものだ。
自分の身体を信じるってなんや?信じるも信じないも、自分の身体やないけ。そんなもん勝手に動いてるわ。とおもうでしょ?
ところが、こんなに文明が進んでも、(ほんとに文明が進んでいるのかどーかは疑問だが)世の中には病気がはびこっている。なんだかへんじゃねえか?とおもった。
あかぎれになってはお薬、ニキビが出来てはお薬、メタボになってはお薬。要するに何かになったら、お薬や病院が助けてくれると思っている現代人がいるということだ。自分の身体はお医者様やお薬が治すもんで、自分では勝手に治せない、とおもっているふしがある。それはつまり、自分の身体を信じていないという事になる。
と、やまんばは勝手に推測した。(でた。やまんばの勝手理論)
人類が出現して何年になるのかてんで分らないが(いろんな説があるので)、少なくとも病院が出来たのはつい最近の話で、それまででも絶滅する事なくいままで生きて来たのだ。
そして人類には隠された能力と言うものがあるとも、まことしやかにささやかれている。学者がいうには、ニンゲンの能力は、まだ3パーセントしか使ってなく、あとの97パーセントはまだ眠っているとも。んでは、そのあとの97パーセントが、人類がこれまでお薬なしで病院なしで生きて来れた証拠じゃないか?などと勝手な推測をしたわけだ。
そこで勝手な仮説を作ってみた。
1:ニンゲンの身体は、何かが起ったとき、勝手に治ろうとする。
2:その身に何かが起ると言う事は、単なるとばっちりではなく、そこに意味がある。それによってなにかを考えろと言う事でもあるし、またそれを乗り越えられるチャンスが与えられている。
3:ニンゲンの心は、その身体が勝手に治ろうとする過程をむしろ邪魔をする。
あいかわらず、勝手な解釈である。しかし暇なので、そんな実験でもしないと退屈で寝てしまう。ごろんと横になってはなクソへぞっているよりはましである。
さて、その仮説を前提に日々を過ごす。
つづく。
絵:タイの神様
2011年4月7日木曜日
多数派って正しいの?
多数決の原理っちゅうもんがあるが、こりゃ、多数の意見の方が正しいっちゅうことなんやろか。A案とB案とがあって、どっちを選んだらいーですか?ときくと、ほとんどの人が「A案がいい!」というから、それじゃ、A案にしましょ。と決まる。でもそれが正しいとか正しくないなんてえことも、多数決で決まっちゃったりするんだろうか。大勢の人がそういってるから、そりゃ、そっちが正しいにきまっちょる、と言う心理になるような傾向がある。でもこれって多数決だから正しいと言う事にはならない。
しかし人はそう思いがちなんである。それは意地悪に言うと、「責任とらなくていい」ということでもある。テレビが言ってたから。みんなが言うから。だからだれかが、「あっちだー!」というと、「おおー!あっちだー!」となだれ込む。
多数決は、正しいことでもなんでもなく、単なる群集心理であるということだ。
ある博士が、放射能はちょっと浴びるぐらいが逆に身体にいいとおっしゃった。
するとそのユーチューブは、何万人にも見られる事になる。それまで誰もその先生を知らなかったが、一気に注目された。これはおもしろい!と、こぞって取り上げたブログ数知れず。ところが誰かがあるとき「これは眉唾だ!」と言い始めた途端、その博士をトンデモ論にもっていくブログが一気に広がった。あれよあれよと言う間に先生の説はたたき落とされ、今その博士に同調する者は、アホ扱いされることになった。
これも群集心理の現れだ。誰かがすごいと言えば、すごい!といい、あれはとんでもない説だというと、おお、とんでもない奴だ!となる。
そうやっているうちに、なにがなんだかわからなくなるのだ。それは、ひとりひとりが真剣にその人のいう事を聞き、自分の胸の内でちゃんとそしゃくしてひとりで考えると言う事をしないからだ。いつも誰かの意見に便乗しているからだ。
私はこの博士のいうことは、真理をついているのではないかと思う。あんなに高揚して壇上で話す姿は、相当の覚悟があっての事だ。
今のこの世の中で、放射能物質一粒浴びてもとんでもない事になると騒がれているまっただ中で、全く正反対の意見を言ったのだ。どんなバッシングが来るか自身で分っていたはずだ。だからあんなにコーフンして話していたのだ。しかし彼にはどうしても伝えたい事があったのだ。伝えずにはおれない衝動があったのだ。
それは、東電からいくらかもらったに違いないとか、目立ちたい一心で、とかいう意見で始末される内容ではなかった。黙っていた方が身の安全であったはずだ。質疑応答で目をしばしばさせて答える姿にも彼の真面目さがでていた。
人は今、安心と安全を求めて心がさまよっている。どこかに心のよりどころとなる意見はないかと探している。その心でいくらお偉いさんの意見を聞いても、どう聞いても「わからない」のだ。大丈夫だといわれてもほんとうに?とおもう。大変だ!といわれたら、え〜〜〜、どこまで!?という。そのぐるぐるまわる心理の先に、行き着く所はない。心はいつまでも安心安全な答えを探して延々とさまよい続けるのだ。青い鳥を探すように。
私たちは日常のすべての行為を心にゆだねている。しかしその心とはとんでもなく厄介なしろものなのだ。今はその厄介な者を意識する事が出来る絶好のチャンスなわけだ。否が応でも自分を意識する。恐怖によって、自分という存在が立ち上がってくる。その原動力は心だ。
心はあらゆるキーをにぎっている。
絵:「ホリデーワールドシリーズ」アジアの旅行のカットイラスト
2011年4月5日火曜日
アイヌの夕べ
おしゃれな街広尾の、おしゃれなギャラリーにて、アイヌ音楽のコンサートが催されます。出演者は、アイヌの若手歌い手の床絵美さんと、トンコリ奏者のSANPEさん。お二人ともがっつり実力者であります。海沼武史がプロデュースいたします。
新しい姿のアイヌをぜひみにいらして下さい。
アイヌ伝統音楽ライブコンサート
『Ainu New Wave -床絵美 X SANPE-』
期日:2011年4月22日(金)18時〜19時30分
会場:EMON PHOTO GALLERY
入場料:3500円 1drink付き
※先着40名様
受付はEメール riwkakant@yahoo.co.jpにて。
定員になり次第締め切らせて頂きます。
2011年4月4日月曜日
美しいすっぴん
震災に遭われた方々のご苦労は、こんな東京の片隅で、日々平穏に生きている私には、想像すらできない。本当にお悔やみ申し上げます。
しかしそんな中で、なぜか心が温かくなるシーンがある。それは、震災に遭われた方々が、自分たちで率先してきびきびと動いている姿だ。
どこだったか忘れたが、政府からの援助も何も来ず、やっと逃れて来た高台でみんなで集まって住み、災害からまぬがれた方々からお米が次々運ばれてき、野菜も畑からもらい、地下水で食事を作る。そして津波にあったがれきの中からおちゃわんや、ポットを探し出してくる。泥の中に埋もれた冷蔵庫の中から、ニンジンやチョコレートを見つけ出して来て、とってもうれしそうだ。その顔には、見栄やてらいがない。
そして最近気がついた事は、テレビに映るおねえちゃんやおばちゃんやおばあさんが、み〜んなすっぴんだってこと。そしてその顔のなんと美しい事よ。そこにはシワを隠すためにぬりかべのようになったおばちゃんの姿はない。自身のシミやシワを気にする事なく、テレビに向かってほほえむ。きっと震災前なら、スッピンの顔をテレビに見せる事なんて、信じられなかっただろう。もちろん化粧品はすべて流されたに違いない。しかし何の見栄もないその笑顔は、何というか、自然体でとっても美しいのだ。
ヒンシュク買いそうだが、ここだけの話、ボランティアにきている人々の中には、いいことをしている私って素敵!、と言う思いが見え隠れしている人がちらほらいる。なんか緊張感がないのだ。なんだかあまり気持ちよく見られない。震災の人々を元気づけようと、歌をもってやってくる人たちもいる。正直言ってその合唱する顔は、自己陶酔にしか見えない。
それよりも、自分で立ち上がって自分で動き出す人々の、はつらつとした清々しい姿には心打たれる。
かっこいいよ!すっぴんおばちゃん!
絵「ポピー表紙/お花見ネコ」絵がおっきすぎて、スキャンに入りきれないよお〜。
2011年4月3日日曜日
カラスの勝手なのだ
今度はヒノキの花粉がやって来た。
みなさま、今日はヒノキ花粉日和でございます。高尾のお山で、あっちゃこっちゃで飛んでます。
ウチの目の前のヒノキに、カラスが巣を作り始めた。ダンナとしては気が気でない。だって、もうすぐウチで音楽の録音が始まる。その最中に、
「カ〜ラ〜ス〜なぜなくの〜、カラスの勝手でしょ、かあ〜、かあ〜」
と、子供カラスが鳴いてくれちゃったら、えらいこっちゃなのだ。
カラスは賢い。ダンナが庭に仁王立ちすると、巣に戻るフリして、さあ〜っとどこかに飛んでいく。巣を知られたくないからか。はたまた「巣はこっちじゃないもんね〜。あっちにあるもんね〜」と、フェイントをかけているのか。
家の中からにらんでもそうする。カラスはいったいどんな目をしているのやら。
ところがいつも家の中にいる私がみても知らん顔して巣作りに励む。ちゃんと人を選んでいるのだ。(無視されているのか?)
花粉症を克服しつつある私。スギは見ないことにしていたが、あまりにも目立つ白い煙にはっと目が行く。それもそのはず、カラスが巣を作っているヒノキに限って、花がたわわになっているからだ。だから巣から飛び出したり、入ったりするたんびに、ぶお〜っ、と、白い煙が見事に舞い上がるのだ。そのすごさは見ないわけにはいかんのだ。
それにしてもカラスは花粉症にならんのかな。
絵:カットイラスト