2011年4月7日木曜日
多数派って正しいの?
多数決の原理っちゅうもんがあるが、こりゃ、多数の意見の方が正しいっちゅうことなんやろか。A案とB案とがあって、どっちを選んだらいーですか?ときくと、ほとんどの人が「A案がいい!」というから、それじゃ、A案にしましょ。と決まる。でもそれが正しいとか正しくないなんてえことも、多数決で決まっちゃったりするんだろうか。大勢の人がそういってるから、そりゃ、そっちが正しいにきまっちょる、と言う心理になるような傾向がある。でもこれって多数決だから正しいと言う事にはならない。
しかし人はそう思いがちなんである。それは意地悪に言うと、「責任とらなくていい」ということでもある。テレビが言ってたから。みんなが言うから。だからだれかが、「あっちだー!」というと、「おおー!あっちだー!」となだれ込む。
多数決は、正しいことでもなんでもなく、単なる群集心理であるということだ。
ある博士が、放射能はちょっと浴びるぐらいが逆に身体にいいとおっしゃった。
するとそのユーチューブは、何万人にも見られる事になる。それまで誰もその先生を知らなかったが、一気に注目された。これはおもしろい!と、こぞって取り上げたブログ数知れず。ところが誰かがあるとき「これは眉唾だ!」と言い始めた途端、その博士をトンデモ論にもっていくブログが一気に広がった。あれよあれよと言う間に先生の説はたたき落とされ、今その博士に同調する者は、アホ扱いされることになった。
これも群集心理の現れだ。誰かがすごいと言えば、すごい!といい、あれはとんでもない説だというと、おお、とんでもない奴だ!となる。
そうやっているうちに、なにがなんだかわからなくなるのだ。それは、ひとりひとりが真剣にその人のいう事を聞き、自分の胸の内でちゃんとそしゃくしてひとりで考えると言う事をしないからだ。いつも誰かの意見に便乗しているからだ。
私はこの博士のいうことは、真理をついているのではないかと思う。あんなに高揚して壇上で話す姿は、相当の覚悟があっての事だ。
今のこの世の中で、放射能物質一粒浴びてもとんでもない事になると騒がれているまっただ中で、全く正反対の意見を言ったのだ。どんなバッシングが来るか自身で分っていたはずだ。だからあんなにコーフンして話していたのだ。しかし彼にはどうしても伝えたい事があったのだ。伝えずにはおれない衝動があったのだ。
それは、東電からいくらかもらったに違いないとか、目立ちたい一心で、とかいう意見で始末される内容ではなかった。黙っていた方が身の安全であったはずだ。質疑応答で目をしばしばさせて答える姿にも彼の真面目さがでていた。
人は今、安心と安全を求めて心がさまよっている。どこかに心のよりどころとなる意見はないかと探している。その心でいくらお偉いさんの意見を聞いても、どう聞いても「わからない」のだ。大丈夫だといわれてもほんとうに?とおもう。大変だ!といわれたら、え〜〜〜、どこまで!?という。そのぐるぐるまわる心理の先に、行き着く所はない。心はいつまでも安心安全な答えを探して延々とさまよい続けるのだ。青い鳥を探すように。
私たちは日常のすべての行為を心にゆだねている。しかしその心とはとんでもなく厄介なしろものなのだ。今はその厄介な者を意識する事が出来る絶好のチャンスなわけだ。否が応でも自分を意識する。恐怖によって、自分という存在が立ち上がってくる。その原動力は心だ。
心はあらゆるキーをにぎっている。
絵:「ホリデーワールドシリーズ」アジアの旅行のカットイラスト
ずっと前の上司は、学生時代、学生運動の
返信削除リーダーでした。(学生運動=死語やね)
かれは話し合いの時に反対派の周りには、
こっちのグループの人間を巧妙に配置し、
アジらせたそうです。(これも死語)
可決させるのは簡単よ。
っとのたまわっておりました。
人間が多数派に付くっちゅうのも、DNA
の仕業なのでしょう?
群れてるときに外敵に襲われて、皆と違う
方に逃げたら、獲物になってしまうって。
(スリラー映画、パニック映画でも大体
一人で逃げたやつから怖い目に会ってた
ものね・・・。)
そーやって、
返信削除「ひとりぼっちはこわいぞお〜」
とあっちゃこっちゃから脅すんですね。おおこわ〜。
そーゆー仕組みの中から、どーやって一人で
「いっちぬっけたあ〜」
って飛び出すかでしょうね。