2011年3月4日金曜日
刺激的な花粉症
花粉症がきつくなった。なんだ。治ってないじゃないか。がーん。
そこで考えてみる。そもそも花粉症というものを発症したのはいつか。私が京都から東京に越して来て、ちらほらその言葉を聞き始めた頃だ。
「花粉症?なんだそれ?」
聞く所によると、それはスギの花粉が舞い始める頃に訪れる症状だと言う。春になる。鼻がむずむずする。「あ。これが花粉症という奴かな?」と意識する。それを意識すればするほど症状はだんだん重くなってくる。鼻水がでる。目がかゆくなる。喉がかゆくなる。そしてまっただ中に突入〜!
ここからは私のいつもの勝手な妄想。
そもそも人はいつも常に何かの刺激を求めているんじゃないだろうか。私にとって花粉症は刺激中の大刺激!なぜその刺激をもとめるのかと言うと、花粉が舞いちるこの頃は、やなことがある。それは確定申告。
「あ〜、やだやだ。領収書まとめなきゃ。計算機どこだっけ?あ〜、また計算間違えた」などなど、めんどくさい事が山積み。
おまけに子供の頃のトラウマ。小学校を3回転校した私は、ジンチョウゲににおうこのころ、新しい場所へ転校する。黒板に大きく私の名前がかかれ、その前にたたされる。みんなのあぜんとした顔。先生が読み上げる私の名前。
「みなさん、新しいお友達、つくしちゃんです!」
ぎゃ〜!わはは〜!生徒全員大受け。机を叩いて笑い転げる全員の生徒たちの、私をあざけり、バカにした顔を見るその屈辱的な瞬間をおもいだすのだ。そこから始まるいじめの日々。(今じゃ、こんな名前、フツーすぎるけどね。昔は変だったのだ)
などなど、そんなもろもろの思いが束になってやってくるのを、花粉症の刺激で紛らわせているんでないだろうか。相当な刺激である。寝るのもつらいほど。しかしこれを自分でどこかで求めているとしたら。。。?
イヤな事つらい事を何かの刺激で逃げる。遊園地いくこともショッピングする事も麻雀やる事もテレビ見る事もいわば逃避だ。それと同じ事をしているのかもしれない。花粉症はお金かからないし、これがきっかけになって大病に転じる事もない。ひと時のイベントみたいなもんである。
それに目を腫らして鼻水たらしていると、人にも「たいへんねえ〜」と、同情もしてもらえる。人はこっちを向いてくれ、自意識も刺激してもらえる。
これはひょっとしたら、「肩こり」と同じ現象なのかもしれない。夏目漱石がロンドンで聞いて来た言葉「肩こり」。そこから日本に肩こりが始まったと言う説。
言葉と言うのは面白い現象を生む。肩こりや花粉症が市民権をえると、そういう症状や病気が存在し始めるのだ。そして人はそれに「たよる」ようになる。
心はどこか刺激を求めて何かないかとさまよい歩く。それははたから見て滑稽でもいいのだ。
以前、ある病院で若いお姉さんに出会った。彼女は
「ここの医者はやぶよ。私が病気だって言うのに、病気だと言わないの。私は絶対病気なんだから。だからいつかどこかの病院で、絶対病気だって言わせてみせる」彼女は病名をほしがっているように見えた。それだって、彼女にとっての刺激を求めている姿ともいえないだろうか。
そもそもなんで自然現象のひとつにすぎないスギの花粉にこんなにも反応するのだ?
一説には花粉が車の排気ガスとくっついて反応するとも言われるが、ウチの家の前のスギからやってくる花粉が、私の鼻にたどり着くまでに、排気ガスがまざってやってくるとは信じがたい。どう考えても純粋培養された花粉でしかない。
これは私の単純な頭が、花粉症を利用しているんじゃなかろうか。日常のイヤな事めんどくさい事から目をそらしてごまかす道具にしていると言える。「あ〜、鼻がでる〜。あ〜、目がかゆい〜」と、言い続けながら、毎日を刺激で満たしておるのだ。
いや〜ん。
絵:「メディアファクトリー新書/空想法律読本」
ウルトラマンが町をこわしたら罪に問われる?
仮面ライダーのあの頭はヘルメットと言えるのか?あれは単なる頭であって、その上にヘルメットをかぶらなきゃいけないのか?
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