2011年3月31日木曜日

こだまでしょうか




「西へ逃げろ!」といえば、
「そうだ!西に逃げるんだ!」といい、
「オレは逃げない」といえば、
「ああ、オレも逃げない」という。

「東北の野菜は放射能がついてるから食うな!」といえば、
「ああ、危ないから食うな!」といい、
「東北を盛り上げるために東北の野菜を食うんだ!」といえば、
「おう!東北の野菜を食うんだ!」という。

「ニッポンは強い国!負けるな!」といえば、
「おう!ニッポンは強い国!負けるな!」という。

でもちょっとつらくなって、
「でもやっぱりこわいよね」というと、
「うん。やっぱりこわいよね」
という。

こだまでしょうか。
いえ、誰でも。




こだまは、枝野だけじゃない。
みんなそうなのだ。

テレビやネットがああ言った、こう言ったといって人々は翻弄される。ほんの10分前に言ってた事と正反対の事を言う。なぜか。テレビが言ったからだ。ネットにそう書いてあったからだ。

ほんとにそれでいいんだろうか。あっちだー、こっちだーといって、その都度方向転換をする自分は何なのだ。そんな自分を見つめるべきなのではないか。今こそ情報に振り回されている自分を見る絶好のチャンスなんじゃないだろうか。教えられて来た事を徹底的に疑ういいチャンスだ。ひとつの事に全く正反対の意見がある事に気付こう。そこに真実はない。

私たちは今、恐怖のど真ん中にいる。
その恐怖をなんとか静めたいがために、そして自分の行き場所を見つけるために、ありとあらゆる情報にすがる。それは外に解決法があると信じているからだ。しかしその恐怖を作っている原動力は自分自身なのだ。自分が自分により大きな恐怖をもたらしている。だから誰かがこう言えば、そうだそうだとなり、反対の事を言っても、そうだそうだという。わたしたちはこだまじゃないのだ。

しかしその恐怖のはじまりは、いったいどこからきたのだ?外からじゃないの?外からもらったもので恐怖し、それを解決してもらうために外から解決法を探す。
なんかおかしくないか。

恐怖という種を、心と言う自分の大地に撒いてもらう。しかしそれを大きく育てるのは、自分の心という大地じゃないのか。それを育てるのも、消し去るのも自分しだいじゃないか。
翻弄されているのは情報からではなく、じつは自分の心に翻弄されているのだ。


絵:「モンスター列伝」

2011年3月29日火曜日

「モンスター列伝」展覧会のおしらせ




4月1日(金)から30日(土)まで、高尾山の麓にあるおいしい珈琲屋さんで個展を開きまあ〜す。

今回は、この日本を作った人々の顔、顔、顔、と題しまして、財界のモンスターたちを描きました。このブログにも載せましたが、原画は紙を切って貼った、ペーパーワークがほとんどです。この機会にぜひ、生のイラストをみて下さい。

2011年3月28日月曜日

すいません。。。



こっちが正しい、あっちが正しい。あんな奴はくそだ。信じるな。

今、ネット上では炎上している。人の意識が完全に核分裂を起こしている。どこまで暴走するのか。

ついこのあいだまで、陰謀論で共通の誰かさんを敵にして共感しあっていた人々は、原発の今の状況について意見が割れ、いつのまにか互いの意見のちがいで戦いあっている。今は自分に同意してくれる人以外は、みんな敵になった。


誰か特定の人々が悪いんではなく、こうやって互いを非難し、自分を正当化する意識が、この世に大きな矛盾を作り出したのではないんだろうか。
かくいう私もそうだ。誰かを怒ってなじって自分を正当化する。私の中に、この世の悪の枢軸が潜んでいる。こんな悲惨な状態に日本がなったのも、じつは私の中にある2元論が作り出したのだ。あいつが悪い、私は悪くない、あいつは間違っている、私は正しい、こっちの方が得だ、あっちは損だ。自己嫌悪が大好きな私は、自分の非難に明け暮れる。そのうち苦しくなって自分を正当化する。心の中は常に非難と正当化で渦巻いている。

この世は鏡だ。自分の中にあるものが外に現れている。悲惨な心になると、悲惨なものが現れる。怒りが爆発すると、まわりも怒っている。この今の状況もネットで炎上している状況も、みんな私が望んだものなのだ。退屈でしょうがないから、何かが起ってくれる事を願ってしまっていたのだ。生きている実感をほしがったからなのだ。私もこの悲惨な状況の援護者なのだ。


絵:「モンスター列伝」出光佐三/出光興産創業者

2011年3月26日土曜日

風が吹くとき





風が吹くとき。
風が吹くとき、桶屋が儲かる(ちがうだろ)。

あったなあ。チェルノブイリ事故の後でた絵本「風が吹くとき」。まさにそんな感じを彷彿とさせる今日この頃、皆様方はいかがおすごしでしょーか。つい最近まで風が吹くと、
「かっ、花粉が飛ぶううう〜〜〜〜〜」と身を固くしておりましたが、先頃は
「ほっ、放射能物質が飛ぶううう〜〜〜〜〜」と戸締まりを固くする気分でしょうか。

また毎日この上なく風がふきまくっております。この風を受けて、西に逃げるもの、海を越えるもの。
畑の真ん中で風を受けながら、白菜やアブラナ科の植物から育ったナバナを摘んでいる。心なしか、素手でつむ指先がひりひりする。すべての植物にやや緑がかった黄色いこまかい粉がびっしりはりついている。気象庁に、「こっ、これは放射性物質ではないのか!?」という問い合わせが殺到。「いえいえ、これはスギ花粉です」と報道。するとネットでは「ああ、ついに気象庁までもが大嘘をついた。あれは放射性物質だ!」とおおさわぎ。
ド素人の私が判断するに、あの粉は毎年飛ぶスギ花粉にしか見えない。しかしその中に放射性物質が紛れ込んでいるやも知れぬ。たまたま同じ色と形をした物質かもしれぬ。どう解釈するも、その人次第である。

これだけ情報が氾濫すると、原発の安全性の情報は見事なぐらいピンからキリまである。いったいどれが本物なのか、真実を語っているのかさっぱりわからない。死ぬ気で原発まで8キロの地点までガイガーカウンターをもっていった方がいらっしゃる。その方いわく、全く安全だったそうだ。「私は原発の見える所に家を買って、福島の野菜、肉、魚を食う!」と豪語なさった。そこに続く人もあれば、とんでもない所にきている!という方もおられる。

これをどう解釈するかは、その人がどう解釈したいかにかかっている。つまり逃げたいなあ〜と思っている人には「やばいぜ!今すぐ逃げろ!」という情報をほしがるし、まだここにいたい。。。とか、移動できない。。。と思う人には、「全然ダイジョーブです」という情報が欲しい。だからそれを納得できるまでネットを見る。テレビを見る。そうしてだんだん分らなくなってくる(笑)。
結局、どっちなの。。。?

やまんばは畑の中で風を感じる。
西から吹くかと思えば、北から吹く。びゅお〜びゅお〜と四方八方から吹き荒れる。この中に放射性物質はあるんだろうな。まるで日本中を駆け巡ってすべてを覆い尽くさんばかりに吹き荒れる風。ふと高知が恋しくなる。ああ、高知までは飛んでないかな。。。
でもどうしても帰る気になれない。どこまで逃げてもやがてやってくるかもしれない。今はそんなふうに逃げる自分がイヤだ。今この瞬間にも原発で死を覚悟してがんばっているフクシマ50の人々がいるのだ。すでにおなくなりになった人もいると聞く。そしてその近場で、身内をなくされ、家もなくし、食べ物もなく身を振るわせている人々もいる。なんでこんな遠くにいる私が逃げられようか。とんでもない文明の負の遺産をこれ以上の被害がでないようにがんばっている人々に申し訳ない。

いつも来る宅急便のおじさんがいう。
「たいへんだよね。だけど、被災地の人々の事考えたら、こっちじゃどうってことないよ。ちょっとぐらいがまんしなきゃね」
うんうん。おじさん、どうってことないよね。

先日チェルノブイリの森の話をかいた。
あそこに今でも住んでいる人々がいる。放射能をあびて、放射能入りの野菜を自給自足して、そしてがんにもかからず元気に生きているそうだ。広島で原爆症にかからなかった人々がいる。日本の伝統食を食べていたそうだ。みそ、梅干し、玄米など、塩をよくとったそうだ。そして爆心地に近い所で被爆しなかった人もいるらしい。なんと酒蔵の中にいた。

何か自然は私らの左の脳ではお呼びもつかない芸当を見せてくれるようだ。いや、私たちがあまりにも短絡的で目先の事しか見えず、もらった「知識」だけを鵜呑みにして生きているから、このような事態に陥ってしまったのかもしれぬ。セシウムとかウランとかプルトニウムとか、こむずかしー名前はついていても、所詮この地球上でとれたもので作り上げたものなのだ。この地球がさくさくと解決していくのだろう。ただその時間がニンゲンの考える範囲かどうかはしらないが。

今は、人が、ほんとうに人であれるかどうかを問われている時期なんじゃないかなあ〜とおもうのだ。昔、戦争が起った頃は情報が一辺倒だった。しかし今は完全に逆になっている。ありとあらゆる情報に溢れている。だからこそ、その心持ちが、今問われている。

ニンゲンはそんなにやわな生き物ではない。


絵:「モンスター列伝」坪内寿夫/元来島グループ社長

2011年3月24日木曜日

敵は自然じゃダメですか?




人は敵を作るのが好きだ。
ネット上では今回の地震は人工地震で、あいつがやったんだ!と、言って盛り上がっている。ほんとかどーかはしらない。もしそうでも、そうでなくっても、やったのはあいつだー!と言っている方が、なんか盛り上がる。敵がいるとなんだか自分を意識する。自分とあいつ、敵と味方。

でもさ、もしこれが、ほんとの自然現象だったら、敵は作れない。
「そっかあ。。。自然がやったのね。。」となってしまって、
「敵は自然だーーー、うてえええーーー!」とはならない。

なんでかしらんが、自然相手だと、盛り上がらないのだ。漠然としてしまって目標が持てない。キホン自然は何考えてるか分らないから、この先どんなことが起るかもわからない。今までの比じゃないのがやってくるかもしれないし。。。
そう思うと、なんだか雲をつかむような感じで心もとない。んで「人はなんかしたくなる理論」(いつできたんや、そんな理論)で行くと、
「こっ。。これは人工地震だあ~!」
と、いっておいたほうが、精神安定上いい。人工地震を作ったのはニンゲン(ウチュー人かもしれない)なのだから、そいつをぶっつぶせばいいのだ。ネットという架空の世界の中で敵を作って、誹謗中傷という竹槍でもって、空に向かって突っつけばいいのだ。それで心はなんとか収まる。

しかしそれをいつまでもやっていた所で、そのうち疲れてくる。だって敵をぶっつぶす具体的なものは何もないんだもん。イケー、ヤレーって言ってても、日々地面はぐらぐらしているし、被災地は現実を突きつけられている。

勝手な妄想だが、やまんばは、このままこの地面がぐらぐらをやめるようには思えない。今までは大きな地震が来て、その余震が何日か続いた後、収縮していくというのが常識だった。だが、それはニンゲンの勝手な「常識」なのかもしれない。自然には常識もパターンもありはしない。好きなように突き進むのだ。

太平洋の向こうっかわのボリビアやコロンビアが、最近地割れを起こし始めている。世界中で、どっこんどっこんと大きな穴が突然あく。ド素人が考えるに、これは今回の日本の地震となんかカンケーがあるんではないのか。巨大な太平洋プレートがグググ~っと左に向かって突き進んで、日本にぶちあたり、地面の下にめり込んでいっている。今まではゆっくり動くプレートは、今回は活動を早めた。今までじっくり日本の下に入り込んでいたプレート。そのストレスで何十年に一回どかんと来るのが今までの地震。
しかしそれがスピードを速めたら、しょっちゅうストレスで地面がぴょんぴょん跳ねまくる事に成りはしないか。それが今回の、今日も続く地震の姿だとしたら。

原発が必要とか必要でないとか言ってる場合ではないのかもしれない。毎日ぐらぐら常に揺れまくる地面の上に、あんなに危なっかしいものを日本国中に乗っけておいて、動かしつづけてていーのか?

敵は自然じゃなくて、ニンゲンの心の中にある。
いつまでもあいつが悪いって、外に向かって叫んでいる場合じゃないのだ。そのあいつとは、本当は自分の中にいるあいつじゃないのか。

自分の中に敵を作って暴れてけんかして心の中を揺り動かしている限り、地球さんはぐらぐらをやめないのかもしれない。


絵:「モンスター列伝」だれだっけ?

2011年3月20日日曜日

人はなんかしたくなる




ついこの前まで普通だったものが、普通じゃなくなったような感がある。スーパーは長蛇の列。お米、トイレットペーパー、などが跡形もなく消えている。保存食になるお米がなくなるのはわかるにしても、なんで菓子パンまでがなくなるのだ?おまけに牛乳も。保存できないっちゅうんじゃ。

朝から晩まで震災の情報が流れ、原発の危険性も流れる。ネットではテレビのいうことはウソだといい、早く西に逃げろとかり立てる。
こんな状況の中、スーパーに行けば、お米も菓子パンもなくなっている。人の心理として、いつもあるものがなくなれば欲しくなるものである。商品が届くたびに、あっという間に売り切れるらしい。気持ちは分る。なんかせずにはいられないのだ。

行列のできる店なんかもそうだ。行列ができると「なんか得するんじゃないか?」という心理が走る。で、先頭が何に繋がっているのかも分らず並んじゃう。新宿のなんとかのドーナツ屋さんが出来た時も長蛇の列だった。それを横目に歩いていると、おばあさんがわけもなく最後部に並んだ。おばあさんがドーナツ買うんかいな?と思って通り過ぎる。用事を済ませてまたもとの道に戻ってくると、あのおばあさんがちょうど「ああ、これドーナツの行列なのね」と、独り言をいいながら、列からでた瞬間も見た。人はどうもみんながやっている事を自分もやりたいと思うようなのだ。なんて名前だったか忘れたが、それは立川にも出来た。出来た当初は2時間待ちの札が立っていたので味見できなかった。あれからしばらくたって例のドーナツ屋さんに寄った。だーれもいなかった(笑)。初めて味見したが、2時間並ぶほどの味じゃなかった。

この災害に対して人はいろんな行動をする。なんかしたくなる。いてもたってもいられなくなる。

このところ毎日NYのアートディレクターからメールが来る。
「大丈夫?ああ、あなたの事が心配よ。なんかないものない?何でも言ってちょうだい。なんでも送るわよ」
「え?何でもくれるの?じゃあ、仕事チョーだい!」と言ってみた。
「つくし、今は写真の仕事ばかりだから、あなたが望むような仕事はないわ。」
なら言うなよ。

全世界が日本のニュースに釘づけのようだ。みんな固唾をのんで日本の成り行きを見守っている。おバカなニュースキャスターが「今、日本に世界中が注目してくれているようです」とうれしそうだ。そんな事で喜ぶんじゃない。その心理の奥は、対岸の火事。まるで映画の再現だという気持ちで見ている人も少なくないはず。
しかし少なからず心が落ち着かない。その心を埋めるように、何かしたくなるので、何か出来ないかと言ってくる。気持ちはありがたいが、その後ろにいい人でいたいという彼女の自分を正当化する気持ちも見えているので、もらうほうとしては複雑だ。今はこうしてパソコンも打てる状態なのだから気持ちだけ受け取っておく事にする。

人はものが少なくなると急に欲しくなる。人が並んでいると並びたくなる。特にこんな非常事態の中では、みんなと同じ事をしようとする。だがその根拠はあやしい。今回の騒ぎで、人は基本的にはあまり自分で考えていないのが分る。原発の近くに今も避難している人々や、物資が何もなく途方に暮れている人々のことを考えると、今東京で起っている騒ぎは観念でしかない。今ここに迫った緊急の危機ではないのに、未来の事を憂いて何かしなきゃと思い、わけもなく人々のあとに続く。



テレビは私たちに今出来る事はないかとうったえてくる。なにかしましょうといってくる。あいにく私にはそんな力はない。いい人でありたいとも思わない。私が出来る事はここにいて、近所の人と出来るだけゆったりとした時間を過ごす事だけだ。
今私たちに求められている事は、心を動揺させず、静かな心を保つ事ではないだろうか。これは自然にできる事ではない。意識的にする事なのだ。これが福岡正信さんの言う「何もしない運動」なのだ。今この瞬間にも地球は刻々とこの状況を変化させている。荒治療がおこなわれたのち、その姿をまた静かに調節しているのだ。今だからこそ、私たちは意識的に静かでいる事が、地球さんが押し進めている治癒を助ける事になるのではないだろうか。


花粉症の症状が治まりつつある。苦しくなると何かしようと行動する。しかしその何かする事が、またもっときつい症状を生み出す事に気がついた。それでなにもしないことにした。夜中鼻が詰まって息が出来なくなり、口呼吸して喉が痛くなる。それまで痛くてかゆくて、何かしようともがいていた。
でもそれでもいいじゃないか。そのままにしておこうと。するとだんだん症状が薄らいで来た。薄らいでくると心も静かになってくる。これだって、何かしようとしない事のひとつじゃないだろうか。

放射能と花粉症を同じにするなと言われそうだけど、911のときの状況に今の東京は似ている気がする。私もあのときニューヨークにいたが、心で不幸になっていく人を見て来た。今だからこそ、東京にいるわたしは、静かに見守っていたいと思っている。


絵:「モンスター列伝」なんだけど、エーン、誰だったか忘れたあ〜

2011年3月18日金曜日

なんかあやしい




なんかあやしい。みょーおにあやしい。計画停電。
来る来ると言われて待ちぼうけ。「今日も来なかったねえ。晩ご飯も風呂もさっさと6時までに済ましたのに、なしのつぶて。今日で3日目だよ。高尾は停電させる価値もないんかいな」と、言ってた矢先、来た停電。うんちの真っ最中(聞きたかねえよ)。おかげでウオシュレット使えなかったじゃん。
予定の時間どおりに来ないわ、来ないと高をくくってたら突然やってくるわ。近所の消防団員のお兄ちゃんも以前はあれほどしつこくスピーカーで言ってたのに、じっさい来る時はだんまり。

ウチは第二グループ。だけど小さな範囲でピンポイントにやってくるだけのようだ。どうも八王子や西八の駅周辺は、しょっちゅう停電するらしい。思うに、過密地区に電力ストップがかけられている模様。ふん。なるほど。高尾のうらさびしー地区の電力供給なんかびびたるもんで、てんでアテにしとらんという事か。

じゃあさあ、いっちばん電力食う東京の中心地はドーナッチョルかと言うと、なんとないんだそうな。渋谷の出版社さんも「計画停電ないですよ」とのこと。

え?つまり計画停電は、地方のちょいとした地方都市地区でしか、おこなっちょらんという事のようだ。な、なんじゃそりゃ。だいたいだねえ。計画停電なるものを行なったのは、福島原発が止まっちゃったから、えっらいこと電力供給が出来ないんでたいへんなんじゃあ〜っ!というから、ご協力しているんちゃうんかい。
それが蓋あけてみたら、ちょろっちょろっと停電されているだけ。
17日には大停電まで予測されていて、結局なし。

なんか、ふりまわされてない?
この「計画停電」は、もひとつ後ろになんかありそうだ。つまり、ホントは足りてるんだけど、電力の供給がなくなると思わせようとしているようなフシが。。。?

今回の事で、放射能騒ぎが起き(今も続いているんだが)、「こんなにあやうい原発ってどうよ?」と人々は思っているはず。世界では原発止める動きもでている。この場におよんで、まだ原発の開発を進める人は、ドン引きされそうだ。

で、東京電力さんは考えた。このままいったら、原発止められそうだ。これから開発予定のものも止められちゃう。そしたら国からたっぷりもらってた予算がでなくなる。。。それってこまるう。。。
「そーだ。電気が足りない事にしちゃお」
と、ナイスなアイデアが浮かんだ(?)。

テレビで「足りなくなります、このまま行ったら足りなくなります」と危機感をあおっておく。そうすると純朴な庶民は「ああ、がんばって節電しなきゃ!」とがんばる。でも実際足りてるから地方都市だけちょろっと止める。地方都市の人は「ひゃあ〜!来たーっ!やっぱり電力足りなくなったー!」と慌てる。
はたまた「計画停電は回避されました」といえば、「それもこれも皆様の節電のお陰でス」と言える。ほんとの事はどーかしらない。しかも誰もそれを確かめられない。別に節電によって供給された証拠など見せなくてもいいのだ。

実際、電力の全体量の4分の3を使用しているのは企業だそうだ。あとの残りが家庭。実は企業は電力を使えば使うほど安くなるシステムなのだそうだ。ところが不思議な事に庶民が使うと、使えば使うほど高くなる。なんと不思議な電気料なのだ。

木内鶴彦さんが著書の中で言ってた。原発を大量に作って電力が余りまくったから、自動販売機やネオンが出来たと。自販機の電気料たるや、一日の電力は1家庭の一ヶ月分になるそうだ。その理屈を考えると、企業が使えば使うほど安くなる不思議な原理が見えてくる。
そんなに電力が足りないのなら、さっさと企業さんが協力すべし。わしら庶民はそのあとだ。

柏崎原発が止まったとき、原発は止まったが、停電にならなかったのだそうだ。災害時の場合復旧のために電気を止めないのが鉄則。優先的に電力が供給されるのがルールだ。しかし今回はそれがない。電気は原発だけで作られるものではない。そもそも原子力発電による発電量は2009年度でも全体の29%だったのだそう。あとはそれ以外のものからの発電。
だとするならこの現状はいったいなぜなのか。

停電で国民をびっくりさせて、原発やめられたら困る〜と思わせようとしている。。。
もしそんな企てがあたらずしも遠からずなら、この計画停電は、本当に念入りに仕組まれたタチの悪い計画停電ということになる。
そんな事やっているとしたら、ほんとやばいぜ。

絵」カットイラストなんに使われたかなあ〜?「ぬらりひょん」このひょうひょうとしたオヤジ好きだなあ。

2011年3月14日月曜日

豆腐みたいに危うい文明

私らは今すごい大事な時期にいるんだなあ。そしてまた、私たちが乗っかっているこの文明というものが、いかに危ういものの上に成り立っている文明かを思い知らされている。

あんなにエコだ温暖化だっちゅうて、オール電化や電気自動車をあおっておいて、こりゃなんじゃい。あっという間に計画停電だよ。
さっき肉屋で弁当買っていたおっちゃんが、
「おれんち、オール電化でどもならんよ」と嘆いていた。
こら、東京電力のしゃちょーさん。ちったあ、「どーもすんませんでした」といいなさい。

そしてその電気を作る原子力発電所の何とおっそろしい事よ。電気がある便利さの後ろにものすごいリスクが背中合わせのようにある現実。これは本当に文明と呼べるものなのだろうか。文明ってそんなもんなの?江戸時代は文明じゃないの?

今回の大きな出来事は、今私らが使っている文明は、もうそろそろ限界に来ていると言うメッセージなのではないだろか。こんな足下のぐらぐらした文明はもうそろそろ切り替えろといわれているんではないだろうか。

それにしても日本という国はへんな国だ。日本国中を空爆でめちゃくちゃにされ、原爆2個も食らって被爆したにもかかわらず、こんなにも発展した。
そしてまた今回の大惨事。文明の象徴である原発の2個の建屋がふっとんだ。原発はどうなってしまうのか。65年前も今も、その時の文明の負の頂点が日本にふりそそぐ。またここから蘇れと言われているのだろうか。
私たちは何を学ばされているのか。これで立ち上がれたら、もうここから先の文明は日本人が考えるしかないのか。


二つの原爆が落ちたとき、アメリカの学者は何百年も(一説には何万年も)この地は不毛の地になるだろうと予測していたようだ(あんたらが落としといて、なんじゃいその上から目線は!)。ところが2年後には米や野菜が豊富にとれたという話を聞いた。
チェルノブイリも今は森が広がっている。ニンゲンが作り出した恐ろしい化学物質は、元々この地球上から作られたもの。それを静かに再生する力を大自然は持っている。あらよっとばかりかろやかに、元の正常な状態に戻していく。

こういう自然を深い所で日本人は知っているようだ。自然を我が身と重ねあわせる感性を持っているのだ。その心でもって次の文明を築いたら、さぞかし美しい文明になるのだろうな。

連日テレビで流される被災地は心を振るわされる。他の国に起ったなら、ひょっとしたら捨て置かれる場所になってしまうかもしれない。しかしこの地の人々は、静かに刻々と、またその地を美しい姿に戻していくのだろう。

2011年3月11日金曜日

似顔絵 河村たかし





夜、窓を開けて夜の山を見る。まだぼた雪が舞っていた。スミ80パーセント以上の暗闇の世界。その中に、音もなくまい落ちる大粒の雪。
う。。美しい。。。ああ。。。たまらん。。。なんて美しい風景。。。。そのみたされたじかんのなかでしばしたゆたよっていると、ふと明日の仕事の事を考え始める。ふと確定申告の事を考え始める。いかんいかん。そんなもん明日考えりゃいいのだ。今はこのひととき。。。。確定申告。。。。仕事。。。。あ、そーいやこれもまだやっていなかった。。。げ。あれもだ。。。あーどーしよ~。。。

結局、雪の夜を味わったのは一瞬だけ。あとはあとからあとから湧いてくる雑念が目白押しして来て、味わえんかったんじゃ。
これはだなあ。つまり人と言うのは、なにかこう、ふわ~っとした暖かい感覚になると、「私」というものが膨張して希薄になっていくのではないだろうか。そうすると、まるで自分が消えていくような感覚になり、心の奥に潜むモンスターが
「お、お、お、自分が消える。いかんいかん。消えたらいかんぜよ。そーだ。自分に気がつくようにしむけなければ!」
と、ネガティブな事を思い出させる。ネガティブな事は一気に人を現実の世界に引き戻す。

「あっ、やばい。確定申告!」
と言った瞬間、シュン!と縮小する自分。そのシュン!と小さくなった自分は、はっきりと固形化してそこにいるのだ。ぶわ~と広がって希薄になっていく水蒸気が、何かの冷却で一気にぎゅっと縮まって固形化する氷のように。
するとモンスターはほくそ笑む。ふっふっふ。ほーらもどってきた。そうこなくっちゃ。あんたは心配事でいっぱいになる~。ますますオレを大きくさせる~。わっしょいわっしょいわっしょいわっしょい、ソーレソレソレお祭りだ~。と、心配事でがちんがちんになって、自分という存在をいやほど意識するのだ。がちんがちんに固まって心の中は自分という巨大なモンスターに占領される。行き着く所は悲惨。


近所に精神病院がある。道をうろうろ歩いている患者さんを見ていると、彼らが自分の事でいっぱいになっているのがわかる。きっと心の中は、心配事とか、憎しみとか、悲しみとか、いらだちとか、そんなものでいっぱいなのだろう。それがますます自分というものを意識させ、凝縮させ、固形化する。その凝縮力はは超合金のように固い。

自分というものを強く意識すると、他人という存在もはっきり見えてくる。それはまるで空気が二つに分かれるようにそれぞれに凝縮していくのだ。敵を作るという事はすなわち、自分を強く意識する事でもある。じつはそれは快感でもある。
「敵はあそこダアー!あそこに向かって打てええーーー!」っとやる、あれ。目的と大義名分が自分というのもを実感させてくれる。男の子はこの遊びが大好き。

スギ花粉も似たようなものだ。スギを敵にすると自分が立ち上がってくる。「敵は花粉だあ!打てええーーー」となる。(どーやって?)

わたしゃあ、きっとスギの木を気にしすぎるんだろうな。目の前にスギ林。たわわにほこったスギの花。ああっ、こう書いただけでも目がかゆくなる。。。
これっておかしいでしょ。パソコン打っているこの今、窓を閉め切った部屋に花粉がが目に入ってくるわけでもなし。
よく考えたら、四六時中花粉症の事を気にしている。目がいくのもスギの木。「ああ、まっちゃっちゃだあー!」と、脅威を感じながら、半ば喜んでいるふしがある。
つまり私の今のマイブームは、ズバリ花粉症なのだ。

心はどうもいつも何かにしがみついて、いつも何かを考えていたいようなのだ。それが一番自分と言うもの、私という存在を強く意識できる。だから今のマイブームは花粉症。私の心の奥に住む「自分を意識しろモンスター」はたまた「あたしは人生おもいっきり実感したいのよ~モンスター」のしわざなのだ。

ふおっ、ふおっ、ふおっ。


絵:似顔絵「モンスター列伝第ニ幕/河村たかし」
このお人の顔はどー見ても悪党面なのだ。そのお顔がこりゃまたたまらんのだ。「越後屋、おまえも悪よのお。。ふおっ、ふおっ、ふおっ。。。」と、まんじゅう小判をもってよだれを垂らす。そんなシーンが浮かびます。

似顔絵「モンスター列伝」1

ここんところ似顔絵が面白いので過去に出して来たものをまとめて出しちゃいます。
このシリーズは雑誌「起業人」の中で中田潤さん書いたエッセイに、私がイラストを入れたものです。彼が書く過去の偉大なる業界人の生い立ちやそこから醸し出されてくる性格の描写はとてもおもしろく、イメージが勝手に膨らみ、私なりに解釈して描かれたものです。
今描いているモンスター列伝第ニ幕も、今度は私なりに解釈した人々を描いています。来月に裏高尾の「ふじだな珈琲」で展示をします。また案内を出しますね。乞うご期待!





2011年3月8日火曜日

何もしないという行動




花粉ふりそそぐ今日この頃、みなさまはいかがおすごし?

先日、あまりの目のかゆさにガマンが出来ず、ものすごい目をかいてしまったら、その直後から白目の部分があれよあれよという間に膨張し始め、水ぶくれ状態になった。その凄まじい形相はお岩さんをもしのぐ!で、相変わらず何もしないで自然治癒に任せる。(良いこの皆さんはマネしないでね)かゆさをガマンし2日でなんとかニンゲンらしい顔に戻った。のもつかの間、これでもかと毎度襲ってくるかゆさにいてもたってもいられず、ふとおもいついた。

あ、ハッカ油があるではないか。
ハッカ油をちょいとティッシュに落とし、それを鼻で吸うとす~っとした感覚が鼻から喉に行き渡り、かゆさもやわらぐ。それを目にいかせるじゃないの。我ながらナイスなアイデア。しかしハッカ油は一筋縄ではいかないつわものだから、用心に用心を。

さて、100倍に水で薄めたハッカ油をちょいと指の先につけ、折り畳んだティッシュにちょんとつける。そのティッシュをおそるおそるまぶたに近づける。決してまぶたに触らない。まぶたまでの距離1センチ。なんともない。さてもう片方にもおなじことをやる。最初にやった左の方がふとジン。。。としてくる。
あ、来たな、右も来るかな?すぐに右の方もジン。。。としてくる。
。。。ジン。。。ジジジン。。。ジジジジジン。。。。。ジジジジジジジジジジ~~~~~~~ンンンンンンン!!!!!!!!
ぼおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーっ!

「ギッ、ギャア~~~~~~~~ッ!!!!!!」
雄叫びが部屋中に鳴り渡る。

なんと表現すれば良いのか、目から炎が3メートル先まで吹き出し、千本の針でぶすぶすと瞳を突き刺されるような強烈な痛みが顔の二カ所にピンポイントでやって来た。ヘビ女が凄まじい形相で画面いっぱいに叫び上げるあの恐怖のシーンが浮かんだ。

「失明する!!!」
慌てて洗面所で水で洗う。全く利かない。タオルに顔を押し付ける。全く利かない。ますます痛みは巨大化する!目も開けていられないし、閉めてもいられない。手で押さえるのはもっとつらい。妖怪のようにふらふらと部屋中をさまよい歩く。全神経が目にいき、目のお化けのようになる。なすすべもなく、窓際に座り込む。相変わらず目から炎が吹き出し、千本の針で刺され続ける。ぼたぼたと涙が落ちる。ただただその痛さを感じているしかなかった。目のかゆさなんてどっかに吹っ飛んでしまった。
この状況を打破するために、いい手があった。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というではないか。そこで感情を切り離す事をやってみる。痛みを外から観察するのだ。

離れない。クソ。全然離れないではないか。痛さが激しいと、人は死を予感するのかもしれない。動物的本能が「死にたくない!」ともがくのだ。死にたくない!は、感情そのものだ。だから痛みと感情はビッタリとくっついてはなれないのだ。

涙を落としながら、その場で5分。。。10分。。と耐える。だんだん痛みが薄らいでくるのがわかる。そしてあの激烈な痛みは消えていった。。。

痛みは感情と全くセットになっている事を知る。それは、死と即座に結びつくからだ。動物的本能が観念の世界をこえる。このままいくと死ぬ!と思うと、人はありとあらゆる事をやってそこから逃げようとする。だがどうやっても何も変わらないと知れば、ただなりゆきを見守っているしかないのだ。


人生もそんなもんかもしれない。どうやっても何も変わらないし、何も変えられないことがわかると、「そのままにしておけ」ということか。すると自然の成り行きや自然治癒で、すべては刻々と変化していく。石けんなし生活もそうだし、畑もそう。何もしないという事が、実は本当の行動だったりするのだ。

実体験を通して色々知るなあ。
私がこの世に生まれて、今日で半世紀たった。


絵:「メディアファクトリー新書/新幹線を運転する」日本人の英知と感覚の鋭さをまざまざと教えてくれる一冊です。

2011年3月4日金曜日

刺激的な花粉症




花粉症がきつくなった。なんだ。治ってないじゃないか。がーん。

そこで考えてみる。そもそも花粉症というものを発症したのはいつか。私が京都から東京に越して来て、ちらほらその言葉を聞き始めた頃だ。
「花粉症?なんだそれ?」
聞く所によると、それはスギの花粉が舞い始める頃に訪れる症状だと言う。春になる。鼻がむずむずする。「あ。これが花粉症という奴かな?」と意識する。それを意識すればするほど症状はだんだん重くなってくる。鼻水がでる。目がかゆくなる。喉がかゆくなる。そしてまっただ中に突入〜!


ここからは私のいつもの勝手な妄想。
そもそも人はいつも常に何かの刺激を求めているんじゃないだろうか。私にとって花粉症は刺激中の大刺激!なぜその刺激をもとめるのかと言うと、花粉が舞いちるこの頃は、やなことがある。それは確定申告。
「あ〜、やだやだ。領収書まとめなきゃ。計算機どこだっけ?あ〜、また計算間違えた」などなど、めんどくさい事が山積み。

おまけに子供の頃のトラウマ。小学校を3回転校した私は、ジンチョウゲににおうこのころ、新しい場所へ転校する。黒板に大きく私の名前がかかれ、その前にたたされる。みんなのあぜんとした顔。先生が読み上げる私の名前。
「みなさん、新しいお友達、つくしちゃんです!」
ぎゃ〜!わはは〜!生徒全員大受け。机を叩いて笑い転げる全員の生徒たちの、私をあざけり、バカにした顔を見るその屈辱的な瞬間をおもいだすのだ。そこから始まるいじめの日々。(今じゃ、こんな名前、フツーすぎるけどね。昔は変だったのだ)

などなど、そんなもろもろの思いが束になってやってくるのを、花粉症の刺激で紛らわせているんでないだろうか。相当な刺激である。寝るのもつらいほど。しかしこれを自分でどこかで求めているとしたら。。。?

イヤな事つらい事を何かの刺激で逃げる。遊園地いくこともショッピングする事も麻雀やる事もテレビ見る事もいわば逃避だ。それと同じ事をしているのかもしれない。花粉症はお金かからないし、これがきっかけになって大病に転じる事もない。ひと時のイベントみたいなもんである。
それに目を腫らして鼻水たらしていると、人にも「たいへんねえ〜」と、同情もしてもらえる。人はこっちを向いてくれ、自意識も刺激してもらえる。

これはひょっとしたら、「肩こり」と同じ現象なのかもしれない。夏目漱石がロンドンで聞いて来た言葉「肩こり」。そこから日本に肩こりが始まったと言う説。
言葉と言うのは面白い現象を生む。肩こりや花粉症が市民権をえると、そういう症状や病気が存在し始めるのだ。そして人はそれに「たよる」ようになる。

心はどこか刺激を求めて何かないかとさまよい歩く。それははたから見て滑稽でもいいのだ。
以前、ある病院で若いお姉さんに出会った。彼女は
「ここの医者はやぶよ。私が病気だって言うのに、病気だと言わないの。私は絶対病気なんだから。だからいつかどこかの病院で、絶対病気だって言わせてみせる」彼女は病名をほしがっているように見えた。それだって、彼女にとっての刺激を求めている姿ともいえないだろうか。


そもそもなんで自然現象のひとつにすぎないスギの花粉にこんなにも反応するのだ?
一説には花粉が車の排気ガスとくっついて反応するとも言われるが、ウチの家の前のスギからやってくる花粉が、私の鼻にたどり着くまでに、排気ガスがまざってやってくるとは信じがたい。どう考えても純粋培養された花粉でしかない。
これは私の単純な頭が、花粉症を利用しているんじゃなかろうか。日常のイヤな事めんどくさい事から目をそらしてごまかす道具にしていると言える。「あ〜、鼻がでる〜。あ〜、目がかゆい〜」と、言い続けながら、毎日を刺激で満たしておるのだ。
いや〜ん。


絵:「メディアファクトリー新書/空想法律読本」
ウルトラマンが町をこわしたら罪に問われる?
仮面ライダーのあの頭はヘルメットと言えるのか?あれは単なる頭であって、その上にヘルメットをかぶらなきゃいけないのか?

2011年3月1日火曜日

ミイラ取りがミイラ?



「メディアが戦争をあおった」という内容の番組があった。
その中で、正確には覚えていないが、こんな言葉があった。新聞記者が自分たちで記事を書きながら世論を作り、いつの間にかその世論の中に自分たち自身もまきこまれていく。そうしていったい誰が世論作ったのかも、自分たちでも分らなくなっていく。。。

その内容を聞いて思い出したことがある。私がある女性雑誌の仕事をしてるとき、似たような場面にでくわした。
これからの女性はこうでなくちゃいけない。こんな生活をしなくちゃいけないという内容の特集を組みながら、その編集者もそういう女性にならなくちゃいけないと思い始めているのだ。理想の姿を特集しつつ、自分もそうならなくては、女性とはそういうものなのだ。。。という考えの中に自分も巻き込まれていく。。。つまりはミイラ取りがミイラになる?のような感じ?
仕掛けた罠に、自分で引っかかっていく姿をみちゃった。こうして誰がその流れを作ったのか、誰も分らなくなるんだろうな。

マスメディアは、常に公平な立場でものを書かなくてはいけないというのが、大前提だ。
しかし本当に右も左も全く公平にものを見てそれをそのまま書いたら、人々はその記事を読んで、はたして面白いと思うだろうか。公平である前提は「自分で考えろ」ということなのだが、そもそも人が記事を読むのは、どこかで答えを求めているからだったりする。だからその中にひそかに「こっちの方向ですよ~」と、もっていってもらえることをどっかでほしがるんじゃないだろうか。「あ~、なるほどオ〜。そっちの方向かあ~。考えもしなかったなあ。そっち、いいかも」となる。早い話が誘導されているわけだが。

新聞などの記事を読んで、人の考えに惑わされるなというセリフをどこかで聞いたことがあるが、それも同じ事を言っている。ともかく、人は言葉に弱いのだ。なんでもかんでも最初に聞いた言葉に粘着するくせがあるんじゃなかろうか。
ま、ようするに人はとことん自分で考えるのが面倒なようだ。


絵:「メディアファクトリー新書/死体入門」とことん死体について語ります(笑)。