2010年11月27日土曜日
草は食われるのに野菜は食わん
そろそろ冬使用の草が生え始めた。
ロゼッタ状に横に広がった草(たぶんギシギシやハルジオン)は、虫に食われた穴がぽこぽこあいちょる。やはり冬になっても虫はいるのである。
しかしだなあ。なぜかあの虫がだ~いすきなキャベツ、ブロッコリー、ケール、芽キャベツ、スティックセニョ~ルなどなどが全く食われちょらん!
虫が大好きな白菜もほとんど食われちょらん。そのまわりの雑草にはぽこぽこ穴があいちょるにもかかわらずだよ。
ふーむ。こりゃ、どーいたことぜよ。やまんばは腕組みをする。
ということは、虫は野菜ばかりを好き好んで食う訳ではないという事か。思うに、その土地で強く育った植物には、虫は手を出さないという事ではないだろうか。その土地にしっかり根を張り、元気よく生きると、虫にとって食べる必要がないという事か。前、虫食いだらけのナスの葉っぱを切り取ったら、ナスが元気になったのと同じ理由なのかもしれない。
ナスさんが言う。
「虫さん、虫さん、私はチョットばかし元気がないナスです。今この葉っぱに栄養をやったら、他の私の体全体に栄養が行き渡らなくなるので、ちょっと食べてもらえませんか?」
「おっしゃ、まかせとけ!」
と、虫さんはむしゃむしゃと食う。
そこへやまんばがやって来て、
「ありゃ、虫食いだらけの葉っぱじゃのう。どれ、その葉っぱを切っておいてやるか」
そういって、やまんばは、虫食いだらけの葉っぱを切り取った。
「ああ、これで楽になったわ。やまんばさん、虫さん、ありがとう」
とナスが言ったのかもしれん。その後、ナスが苗に残された葉っぱを虫に食われる事はなかったのだ。
ところがそこに隣の欲ばりじいさんがやってきて、こう言ったとしよう。(なんだか昔話みたいじゃの)
「なんじゃあ?このナスは。実がひとつもつかねえじゃねえか!肥料が足りないにきまっちょる。肥料をやらんか、肥料を!」
欲ばりじいさんに怒られて肥料をやるやまんば。するとナスさんは、
「ああ~、せっかくバランスがとれはじめた土だったのに、そんなものやったら、全部吸い上げてしまう性質の私はメタボになってしまう~~~~」
ぶくぶくと太ってしまったナスさん。メタボでひ弱な身体になってしまったナスさんが、
「虫さん、虫さん、余分な部分の私を食べて下さいな」
「おっしゃ、まかせとけい!」
張り切って仕事に励む虫さんたち。
そこへ欲張りじいさんがやって来て、
「なんじゃあ?この虫は!殺虫剤撒いて殺してしまえ!」
「あああ~~~~」「ひいい~~~」
ナスさんと虫さんの雄叫びも届かず、せっかく自然の状態に戻ろうとするナスさんや虫さんのお仕事も虚しく、畑は完全にバランスを失ってしまいましたとさ。ちゃんちゃん。
というのがホントの話だったらだったらどーする?
ほんの少しの視点の違いが、大きな方向のちがいになるとしたら、私たちニンゲンはなにをしているのか。ああするのがいい、こうするのがいいといわれて、あっちこっちとフンソウする。あげくになにも育たない土地になってしまった畑が隣にある。相変わらず、化学肥料や殺虫剤や有機肥料をたんまり入れている。細々と育った大根の葉っぱが寒そうに見えるのは、その土地が随分冷え込んでいるのだろう。なんだかこの姿は今の人間のあり方と基本的に同じなんだろうな。あれが身体に効くこれが身体にいいとフンソウするその姿に。
きのう八王子の市場に出かけた。ふと、即席のべったら漬けでも作ろうと酒粕を買った。するとレジのおじさんが言った。
「今日は、飛ぶように酒粕が売れるんだよ。」
「なんで?」と私。
「だって、きのうタメシテガッテンだかなんだかで、酒粕が身体にいいとかやってたんだよ。そしたら、来るお客みんなが酒粕買っていく」
半ば、ばかにしたような言い方のおじさんであった。バカにされてもしかたがない。それだけみんなテレビに踊らされている。
すべては条件づけの中で踊らされている。ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、草に栄養とられる、肥料を入れないと野菜は育たない、虫が食べる野菜はうまい、薬じゃないと風邪は治らない、、、うんぬん。
ほんとにそうなのか?ホントにこの世の人々が言っている、ああしなきゃこうしなきゃとおおさわぎする事が真実なのか?
しかし石けんなし生活はそれとは反対の事を物語ってくれている。畑も虫が草は食うが、野菜は食わないというのを目の当たりにした。
すべては自然の摂理にそって生きると、すべてがたおやかにさら~っとスムーズに流れていくんかもしれない。石けんなし生活や自然農は、そんな仮説を立てさせてくれる。
何か事件が起こったとき、それを素直に受け取る。なんとかしようとか、なんとかしなきゃ!とあせらない。身体の具合が悪くなったとき、早くなんとかしなきゃ!とか薬のまなきゃ!と、あせらない。すべては何かをその人に伝えようとして起こる出来事なのではないか。その時、ふと立ち止まってじっとかんがえる時間が与えられているのではないのか。
山奥で道に迷った時、人はやみくもに動き回るだろうか。やみくもに動き回れば回るほど、どつぼにはまる。そんなときは、じっとその場で立ち尽くし、心静かにこれまでたどって来た道のりを思い起こすのではないか。それと同じじゃないだろうか。何かが起こったとき、やみくもに動き回ると、最初にいた位置までわからなくなる。
なぜそれが発生したのか、自分の心の奥に聞いてみる事が一番じゃないだろうか。だがひとはそんなとき必ず最悪感におちいってしまうものだ。それで感情的になり、自分がやった事を冷静に判断できなくなる。だがそんな事をしてもその出来事は消えない。
そんな時はすーっと静かな心になるのだ。そこには、ああした方がいい、こうした方がいいという他人の忠告や、テレビが言った事などとは無縁の、泉がわくようなアイディアが、ふと心の中にしずかに湧いてくるのだ。それが本当のことなんじゃないだろうか。そうすると「いやいや、そんなはずはない。人はこう言った、常識はああだった」と心が惑わされるものだ。しかし人のからだの中には百人の名医がいるとヒポクラテスは言った。すべては自分の中が知っている。ひたひたとうごいている大宇宙の摂理がある。人間はその中にちゃんと組み込まれて生きているのだ。その事にただ気がつくだけでいいんじゃないだろうか。
絵:コージーミステリー表紙
2010年11月25日木曜日
自然発酵種むずかしすぎ
「げ、すっぱい!」
チョコシートをパン生地に折り込んで出来上がったショコラブレッド。食ったら酸っぱいでやんの。うわー。やっちまった。乳酸菌、かつどーしまくり。おそるおそる冷蔵庫に保管してある中種、元種もちぎって食べてみる。げげげー!全部すっぱい!ああ~、乳酸菌ちゃんフル活動。
もうやだ。すごい。自然発酵種、ものすごーいてごわい。こんなもの、捨ててしまおう。ほとんどの種を捨てる。でもちょっぴり残しておいて、それにエサやりをしておいてみた。数日後、、、、、消えている。すっぱいのんが消えているではないか!実は捨てるつもりの中種もとっておいたので食ってみる。え?すっぱいのんが消えている!
もう、わけがわからんのだ。
すっぱくなったり消えたり。それはほれ、この発酵菌ちゃんが、自然のものだからなのだろう。このレイゾーコの中で、ひたひたと生きているのだ。変幻自在に変わりながら、生きているのだ。こーなったら、ハウツーもんなんてもなあねえ、この世に存在しないのだ。
イースト菌ちゃんは人工的に作られた発酵種。同じ菌ちゃんが三つ子ちゃん四つ子ちゃん1兆子ちゃんと、みんなおしとやかに整列しておとなしい。だからハウツーもんが存在できる。
しかーし!この空気中からその発酵の種を求め、作り上げられたわけのわからん天然の酵母菌に中には、わしも、おらも、おまんも、おんしも、あても、おいどんも、おばちゃんも、おんちゃんも、じっちゃんも、タゴサクも、み~んないっしょくたに住んでいるのだ。み~んな好き勝手に共存してレイゾーコの中に住んでいるのだあ~~~~。
なるほどね。だからイースト菌という優れものが発明されたのだな。パン屋さんにとっちゃ、ある時は、ばあちゃん菌が活動したり、またある時は、タゴサク菌がフル活動しちゃったりしたら、
「ちょっとちょっとちょっとおー!こないだのアンパンと味が違うじゃないのよー!なんだがじじむさいわよー」
とクレームをくらう。
「どーもすいませんねえ。今日はタゴサク菌ががんばっちゃって」
と言い訳する。。。。って、商売になるんかい!
なんだかね。これは自然農にまったくにてる。あーでもない、こーでもないと必死でいろいろやってみたが、結局ハウツーもんはないという結論に達する。その土地にあったその土地がかもし出すノリっちゅうのんがあって、それにそった作り方をしろ!と言われている気が最近するのだ。
つまるところは結局みんなそうなんかもしれない。あれが身体にキク、これが心にキクとあっちこっち探しまくって、そこまでいいものがあるんだったら、この世はさぞかししあわせに満ちた健康的な野菜に溢れた世界なはず。でもむしろ逆ムキになっている。それはハウツーもんにたよりすぎているからなんではないのか?すべてはその状況によってまったくちがうんじゃないかえ?
んで、2度目のチョコラブレッド挑戦。
「げ。すっぱい!」
また作っちまった。
見た目はプロみたい。ぷっくり美しーく出来上がったこの一斤半の固まり。すてるのかー?
イチゴジャムでも乗っけて食っちまおうか。すっぱいのんがごまかせるから。
絵:ラブロマンス表紙(なんだかどれ出したんかわからなくなって来た。重複したたらごめんねえ〜)
2010年11月18日木曜日
草ごえと歌ごえは野菜に効く。
秋に入り、あの激しかった草の勢いもウソのよう。今は広々と全体を見渡せる畑の中で一息つく。
近所の畑おじさんに
「ドオだあ?オタクの畑の調子は」
というご挨拶に(なかばからかい半分の)、
きっちり「はい。草、育ててマス」
と、毎度答えるぱぱさんのセリフどおり、今年はホントに草育てた。そのかいあって、秋には草肥は豊富。カラカラに乾いたメヒシバはサイコーの草肥。畝のベッドでお布団代わり。晩秋の寒い風の中で野菜さんたちはゆっくりあったかく育っている。
去年の秋と今年の春の種まきのような、虫の食欲おう盛さは、なぜか今年の秋の種まき頃にはぴたっと止まった。
春蒔きの新芽全滅の悲劇を繰り返すまいと、アホほど撒きちらしたアブラナ科の種。虫に食われずコオロギ食べず、そのまま発芽。畝の上、隙間も見えない新芽の嵐!土の肌はおろか、草の一本も生えてこれないくらいビッチリ埋まった。
ちょっと歌いすぎたかな。。。?
あるブログで発見した、歌いながら百姓するきもいオヤジ。畑のど真ん中で朗々と好き勝手な歌を歌う。その歌の内容は、私の聞きながら育ったものとぴったりマッチしていた。おのれ、私のジェネレーションだな。とチェック入れる。ドンピシャ。そうか。歌うのか。。。
んで、やまんばは、マネをした訳だ。
「撒きなさ~い。わらい~な~さあ~い。人として、野菜として、大きく育とうよ~」
そうやって歌いながら、秋に次々と種をまいた訳だ。
そして目の前に、草も生えないくらい密集した新芽の畝。こっこれじゃ、間引きできない。。。。ほっとこう。。。(オイ)
私の美声はそんなに野菜にキイいたのか。。。?やはり、肥かけは、声かけなのかもしれん。「菜っ葉の肥やし」とはこのことか(ちがーう!)
『注:菜っ葉の肥やし(なっぱのこやし) 野菜の肥料は下肥(しもごえ)であることから、掛け声(=肥の洒落)ばかりであること。言うだけで実際の行動を起こさない者を罵(ののし)って言う』
それにしても、初めてこの畑で種取りしたアブラナ科の野菜、タアサイ、水菜、壬生菜、小松菜、ノラボウ、コカブ。それぞれに種とったはずなのに、出てくる葉っぱは、みんなおんなじじゃないかー!若草色の若葉のベッドは、水菜のはずなのに、丸い葉っぱや、チンゲンサイみたいなものが混じっているし、タアサイの葉っぱは、水菜みたいにギザギザしたモノが混じっている。しかも根っこがカブのように太っているものまである。これが交配という奴なのだな。もうしらん。このまま育ててここの畑オリジナルの野菜を作ってしまおう。
聞く所によると、インディアンは野菜作りに肥やしは入れないと言う。ゆいいつ入れる肥やしは、笛。笛を吹いて野菜に聞かせるのだと言う。これだな。やはりこれにかぎるな。ひそかに歌って肥やしをやろう。。。
誰もうしろで聞くなよ。
絵:オリジナル絵本「やまごえ」より
2010年11月12日金曜日
安心な場所
夕焼けを見ながら畑から戻る。
いったい自分は、最終的にどこに落ち着くんだろう?そんなふうに考える。
ああ、そういや、ニューヨークでいた時も同じ事考えていたなあ。「私はいったい、どこに落ち着くんだろう?」「私の人生って、なんだろう。どこに向かって進んでいるんだろう?」「行くべき場所ってどこだろう?」
きっとニューヨークの私が、今のこの高尾山のふもとで、畑をしている姿をかいまみでもしたなら、これが「落ち着く場所」と思っただろうな。しかし今その場所にいる私は、ここを最終目的としていない。
それはたぶん、場所ではなく、生き方をさぐっているのだろうな。ではこの生き方はステキではないか。しかし私の心は「これではない」というのだ。
人はつねに安定を求める。安心な仕事、安全な場所、永遠のしあわせ。。。
今ある「ここ」は、つねに安心な場所ではないのだ。だからどこか別の場所。。。と、心がいう。
年老いた母の姿を見ても、彼女のいるところが最終目的地で安住しているようには見えない。彼女もまた、いつかどこかで自分は安心安全な場所。。。と求めているのだ。
という事は、人は永遠に求め続けているだけなのじゃないか?
人間の最終目的地は、「死」なのだ。人間は死という目標に向かって進んでいるのだ。本当は、それが本当の安心な場所なのかもしれない。
だとするなら、人生は、死ぬまでINGのままなのではないだろうか。現在進行形。死ぬまで安定のない、安心ひとつない、自分が描く理想なんて無視される現象が目の前でどんどん展開されて、どんどん進んでいく。今この瞬間もどんどん死に向かって進んでいる。なにひとつ、止まる事がない現在進行形。
安心や安定は止まる事を意味する。
どんどん押し流されていく自分の人生を不安におもい、
「ちょ、ちょ、ちょっとまってよー!ついてけないじゃないのー!」
とあせる。必死で止まろうとする。流されながら、
「ああ、止まりたい。どっか止まれる安心な場所おおおおおお。。。。」
かくして人間は安心な安定した場所を求める。しかしそれは死ぬことなのかもしれない。
おとぎ話は必ずこうしめくくられる。
「そうして二人はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
これが人が求める最終目的なのだろう。小さい時にこの思想は植え付けられる。
しかし人生の意味とは、この全く一瞬もとどまることのない生を、意識的に生きることなのではないだろうか。
つまり、私たちの最終目的は、逃げずに死ぬまで生きる、ということなんだろうな。
やまんばは、夕日を見ながらそうおもいましたとさ。
絵:オリジナル絵本「やまごえ」
2010年11月10日水曜日
テレビ菌がウツるんです
前から変だとは思っていたが、最近特に変だ。何の話?ニュースだ、ニュース!
報道とは、平等かつ公平に行われなくてはいけないとおもうのだ(わしだけか?)。なのに、最近のニュースキャスターは、北朝鮮並みの情感の入れかたをする。「あってはならないことです」とか「許すまじきことデス」とかいらん言葉を言う。昔のニュースキャスターはそんな情感なぞ入れなかったぞ。あくまでも人権を尊重した言い方をしていた。今はまるで容疑者は「チョー悪い奴」という前提で喋っている。ひょっとしたら、白かも知んないのに。
さらに変なのは、報道番組で、今のハヤリの特集をやったり、これからハヤルものを先取りしたコーナーもある。なんでや?ニュースだろ?
ほんでもって、必ず出てくるのが、食べ物。なんでやなんでや、なんでそんなもんやるんや?ニュース番組だろ?
まるでお昼のワイドショーネタがそのまま夜の番組になっている。ニュースキャスターは情感込めていうし、今ハヤリを先取りしろと言うし、お得なものをゲット!という。報道ってそんなもんだったんかいの。
今問題になっている尖閣諸島ビデオ流出問題も、誰が流したとか必死になって探しているが、もっと大事な事忘れてない?そもそもあのビデオ見た限り、どう見ても中国が突っ込んで来ているじゃないの。その確固たる証拠ビデオを、なぜに政府はかくしたの?さっさと公開してたらこんなに問題もこじれなかったかもしれないのに。そしてその流出されたビデオは、本当に全部なのだろうか。な〜んだか、なにもかもあやしーのに、その怪しさを突き止める事もしないで、だれがやった!?ということばっかり。それもなんだか、何かを隠すためにそっちにばっかりふっているよーな気がしちゃって、いろいろ疑っちゃうじゃないの。
秋葉の事件も、遺族が死刑にして欲しいなんて平気で言う。それをニュースで流すあたりが、わしゃ、ぞっとする。その根底に「悪はとことん悪!」という極端な思考が入り込んでいる。秋葉事件のお兄さんだって人権というものがある。どんな経路であそこまで追いつめられたか、彼なりの理由があるはずだ。お兄さんの家族が、苦しさのあまりに吐いてしまう言葉ならいい。でも他人がいえる言葉ではない気がする。そういう言葉はぐっと胸の奥にしまい込んで、あえていわないのが日本人の美学ではなかったのか。
そんな思いになるのも、最近の変なニュース番組が、極端に怒りをあおっているからそんなノリになっちゃうんじゃないの?え?
テレビ菌がウツるから、よいこのみんなはあまり見ないようにしましょう。
絵:「すごい駅」メディアファクトリー新書表紙
2010年11月5日金曜日
なんとかなる
ごしょごしょと、健康に関する本を読んでいる。
「健康のためなら死んでもいい!」と言っていたタモリがやっているタモリ流入浴法。なんじゃ、石けんなし生活とおんなじじゃねえか。石けんなし生活もそのうちポピュラーになるんだろうな。ほんでもって、この世のやまんばがうじゃうじゃじゃあ〜。
三好基晴さんの「病気の迷信」と「ウソが9割健康TV」というのを図書館で借りて来て読む。それによると、わしらが日頃口にする言葉「風邪は万病の元」とか「怪我したら冷やす」など当たり前に思っている事が「風邪は万病の予防」とか「怪我したら冷やさない」とか、じぇんじぇん違う事が書いてある。おまけにアレルギーになる人はがんにかかりにくいとか。トンデモ本であーる。こんなもん信じたら、お医者さんがおまんま食い上げじゃないか!いけませんねえ。そしてテレビで言っている健康ハウツー番組は、9割がウソだと申しておられる。これまたいけませんねえ〜。そんなこと信じたら、この世はやまんばがうじゃうじゃじゃあ〜。
よいこの皆さんは、風邪は万病の元であり、怪我したら冷やして下さいね。そうでないと、病院経営が成り立ちませんよ。
でもさ、あれしちゃダメ、これしちゃダメ、ああしなさい、こうしなさいといわれるより「ほっておきなさい。自然になおるから」といわれるほうが、おもしろい。人間の可能性をかいま見る事ができる。ヒポクラテスは我々は身体に100人の名医がいるといったじゃないの。
人間の身体は何か起こったら、自然に治ろうと全身全霊で治そうとする。それを人間のいらない知恵で、冷やしたり、クスリ飲んだり、ステロイド塗ったりして、治るのを邪魔しているかもしれないのだ。
その先生がいうには「薬」という漢字は草に楽と書く。草を使って楽にすると書く。治るとは書いてないのだ。単に楽になるだけの事なのだという。ホントに治るんなら、草かんむりに治ると書くはずだ。気分的に楽にするだけのことかもしれない。漢字はすごいなあ。律儀にホントの事が書いてあるのかもしれない。
ちなみに「クスリ」を逆から読むと「リスク」だそうな。
私たちは痛みが来ると「やばい!どうにかしなきゃ!」とあせる。それをとりのぞかなくてはいけない!とおもう。ところが痛みは身体が治療している最中なのだとしたら、また、そのように私たちが教わって来ていたなら、「やばい!」と思わないのではないだろうか。
小さい頃、ケガをして、母にヨードチンキを塗ってもらった瞬間、痛みが来て泣いたら、
「このお薬は悪いところを治してくれているのよ。今ばい菌さんとお薬さんが戦っているところだからね」といわれた。
「そーか。今戦って、治してくれてんだなあ」
となんだかうれしくなり、痛みが遠のいた記憶がある。そういう言葉ひとつで感覚は変わるのだ。その時から「薬は治してくれる」とインプットされた。教育ひとつで考えは変わるのだ。
ところが、ここにひとつの教えがある。洗脳といっていいのかもしれない。薬信仰だ。母は、その母から病気は薬で治る、と教えられたのだ。それを信じているから、それを子にも伝える。その心の根底には、痛みはいけないこと、それを取り除かなくてはいけないもの、というアイディアがある。
もし、痛みは治ろうとする自然の摂理として教えられていたら、子供の感覚は一変する。ケガして泣いていたら、
「痛みは治ろうとする大事な身体のお仕事なのよ。さ、水で洗ってそっとしておきましょう」
といったらどうなるのか。私たちはその時から、痛みを恐怖する事がなくなるのではないか。風邪は万病の元ではなく、あらゆる病気を阻止するための予防の役目をすると教えられたらどうなるのか。大掃除のために熱を出し、バランスを保つ役割をしていると教えられたら、はたして解熱剤であがる熱を下げようとするだろうか。
先日、急におなかが痛くなった。そこでどのように痛みがくるのか観察する。左が痛くなり奥に引っ込み右に移動する。背中のあたりに何かの感覚が起こり、いきなりモヨオして来た。トイレに駆け込む。それから痛みはひいては現れひいては現れしながら、その度に排泄し、じょじょに消えていった。
人は痛みや身体がだるくなると、必ず感情が動く。
「イヤだ。この症状なんとかして外したい」とおもう。
その心はその痛みに抵抗をしている。だが観察するとは、抵抗をしない事なのだ。痛みを痛みとして淡々と見る行為。痛いと自分の感情が動くのをあえて外すのだ。抵抗するとは身体が自然に治癒しようとする事を妨げるのではないだろうか。抵抗=拒絶=身体が固くなる。だが、その抵抗を外すと、その痛みを受け取る事になるが、それを会えて真正面から見る事によって、その痛さは抽象的になってくるのだ。痛い痛いとおなかを抑えるとその痛さはがぜん強さを増す。ところが力を抜き、抵抗せず、痛みがどのようにあるのかを観察するうちに、モノの2秒もしないうちにその痛みは漠然としてくる。こうなるとシメタものだ。そのまま観察を続ける。おもしろい事にその痛みは移動するのがわかる。からだの中に何かが起こっているのがわかる。なんというか、自分の知らないところで大きなうごきが勝手に起こっているのを、そのとき感じる事ができる。その偉大さは畏敬といってもいいくらいだ。偉大なからだの摂理。健康な時はからだの中の事など忘れている。こんな時こそ、ナマでその大自然を感じる事ができる。
鍵を握っているのは、抵抗なのではないか。何かが起こったとき人は抵抗する。そしてなんとかしなきゃと思う。そのなんとかしなきゃが、事の収束を遅くしているのかもしれない。
お世話になっている編集者の人から昔聞いた話だ。
知人がとてつもない事件にあって、自分ではどうしようもなく、とことん落ち込んだとき、満員電車に乗っていたそうだ。込み合った車内で、「どうしよう、どうしよう」と心が動揺していたとき、突然大きな声が聞こえたそうだ。
「なんとかなる」
あまりに大きな声が車内にひびいてびっくりしてまわりを見渡したが、誰も気がついていないようす。ただ、目の前に座っていた人だけが、自分を見てにやっと笑ったそうだ。
それからぱたぱたとその問題は解決したのだと言う。
すべてはなんとかなるのかもしれない。いや、自然の摂理がなんとかしてくれているのかもしれないではないか。
そう思えば、何も抵抗する必要はないのかもしれない。
絵:「あがり」は味方にできる」表紙イラスト