2009年5月14日木曜日
ひょっとしてのつづき
昔は、高知のど田舎に犬に避妊手術なんてものはなかった。もちろん動物病院というしゃれたものもなかった。だからうちの犬ナナは、毎年2回子供を産んだ。普段は見かけないのら犬どもが、ナナがその季節になると、どこからともなくやってくる。ナナはヨークシャテリアの雑種。ケモクジャラで目がどこにあるかもわからない顔をしているが、雰囲気が器量よしらしい。だってなぜかモテモテだったんだもの。(?)
小学生の私はその頃になると、庭先に砦を作る。オス犬の撃退装置だ。魚屋の木箱や、浜に流れ着いた流木をかき集めて積んで雄犬が入れないようにする。万が一潜入に成功しても、その先には針地獄が待っている。私は庭に迷惑なほど育っているうちわサボテンの10センチほどの長さのトゲを一本一本ぬきとり、拾ってきた段ボールに差し込む。ほーら、見事な針のむしろの出来上がり〜。これならあのしたたかなオス犬どもを撃退できると、ほくそえんだものだ。だけどなぜかナナは毎回ご懐妊。散歩の途中でも、私が目をちょっと離した好きに、尾行していた(?)オス犬とおケツとおケツが合体している。
「あ”〜〜〜〜〜〜〜ッ!」私はそこらに落ちていた木の棒で、のら犬をバンバン叩く。が一向にはずれない。まったく。動物の本能とはそら恐ろしいもんである。子供ながらにそう悟る。そしてナナは毎回5〜7匹子犬を生んだ。
子犬たちの目があくかあかないころに、父が一匹だけ子犬を選択する。毛が多く、耳がピンと立ちそうなやつ。選ばれた子犬をナナの元に残して、私たちはある儀式をする。そう、子犬たちを捨てにいくのだ。
段ボール箱に入れられた子犬たちを持って、父と浜に出かける。波打ち際に浮かべられた段ボール箱は、ゆっくりと沖に向かって流れていく。なにかを感づいた子犬たちがミイミイと泣く。子犬たちの重みで段ボールに海水がしみ込み、ゆっくりと沈みはじめた。私の心は締めつけられる。ザザーン、ダッパーン...。波の音の中に子犬の鳴き声はかき消され、やがて段ボール箱は海面から消えていった。
毎年繰り返されたあの儀式はいつまでも私の脳裏に残っている。私が住み慣れた場所の浜には、そういう思い出も残されているのだ。私は心の中で合掌をする。父は淡々としたものだった。彼の胸の内は幼い私にはわからなかった。
家に戻るとナナはすでに事のじたいを知っていた。一匹だけ残された子犬がナナのお乳をまさぐっていた。そうやって残した子犬はある程度まで大きくしてから里子に出された。
その中で一番私が可愛がっていた子犬がいた。コロと言う。コロはコロコロしてケモクジャラで、ナナが生んだ子犬の中で一等かわいい子犬だった。どこに行くにもいっしょだった。
あれはひな祭りの頃。近所の友達が家にひな飾りをしたというんで、コロを連れて見に出かけた。そこは大きな庭を持つお屋敷。コロはどこへ置こうかと迷ったが、近くにあったカゴをかぶせてそこにいてもらうことにした。私は縁側近くに飾られたりっぱなひな壇にみとれた。しばらく遊んで帰ろうとしたとき、コロがいないのに気がついた。あわてて探したが、まもなく見つかった。コロは庭の中程にあった水をはった溝の中で溺れ死んでいた。私がかぶせたカゴのまま動いて、溝に落ちてしまっていたのだ。
そのあとの事はほとんど覚えていない。ただひたすら泣きじゃくりながら、ゆかたにくるまれたコロを抱いて浜に向かった事だけ覚えている。ゆかたはコロのぬれたからだで水浸しだった。
今考えれば、あの時から私の自己嫌悪が始まったのではないかとさえ思う。あの時私がカゴをかぶせなかったら、コロは死なずにすんだ。あの時コロを連れていなければ死なずにすんだ、あの時.....。そうやって何度も何度も自分がやってしまった事への後悔の念が私を押しつぶした。やがてその思いは、私は何かひどい事をしでかす人間なのではないか、という考え方にまでいたる。それが強迫観念となって今の私の性格を作っているのかもしれない。
コゲラのヒナの死も、そんな思い出と自己嫌悪が複雑に入り乱れたゆえの動揺だったのかもしれない。あの頃は一人で悲しさに耐えたが、今はダンナがいる。感情の動きを話す相手がいる。話すごとに、この出来事を心の中で消化する時間も速まってくる。ゲンキンなもので、また次の日にコゲラがエサを運んでやってきた時、「バッカだなあ〜」と、コゲラの行動をどこかで微笑ましく思える私がいた。
人の心とは物質より厄介なものかもしれない。見えないから、消化もせずに押し入れの中にしまい込み、似たような事件が起こると、あっという間にオモテに持ち出してくる。でもそれがなんのことだったのかわかりもせず、ただやみくもに動揺するのだ。
今の時代は感情がむき出しになる。それを受け入れる世の中だ。でも感情とは恐ろしいものだ。いつのまにか自分自身がその感情の渦に飲み込まれてしまう。そして感情の洪水は自分だけでなく、まわりをも巻き込んでしまうものなのだ。
自分が何かに反応する。それには何かの原因があるのだ。その原因をさぐってみると、過去に行き着く。しかしそのときはつらかったが、今それが起こっているわけではない事に気がつく。もう過ぎ去った出来事なのだ。今を生きるとはそういうつらかった過去を、過去として収めていく事なのだろう。きっとコロの事件もコゲラのヒナの事件も、私にとって何かを知るため必要だったものなのだ。それは大いなる自然の営みを歓喜するための、神様からのプレゼントだったのかもしれない。その事がいつかわかる日がくるんだろうな。
ヒャ〜、長くなっちゃった。
絵:COOPけんぽ表紙『ナナと散歩』
つづいて頂いてありがとうございます。
返信削除避妊去勢手術は今は当たり前になってきてるけど、そりゃ~以前は無かった話ですよね。そうか~年に2回も…トホホですね。
ヘビがヒナを食したことを、うわぁ!って思ったけど、ヒトなんて自分よりデッカイ牛をバクバク食べてる…いちいち、うわぁ!なんて思わずに。
ヒトって凄いけど、凄くないですね。
そうそう。残虐行為と言われるものも、その生き物にしたら必要最低限のことだったりする。
返信削除ここん所、生命とは何ぞや?とか思わされることがひんぱんにある。
たぶんそれは大きなうねりの一つなんだろうと思う。
ただ、目の前に起こることをそのまま受け止めて、事の次第を宇宙の流れにゆだねることなのかもね。結構むずかしいけど。
人を過信するのもなんだけど、反対に人を嘆くのも必要ないかもしれない。....とはいっても悪口言っちゃいますけどね。へへへ。
酔っぱらってて、何かいてんだかわからなくなってきた。すんません。