2009年1月30日金曜日
「しまった病」
おまえはひまなんか?といわれそうだが、一人でぶつぶつ考える事がある。
私の「ちゃんとしなきゃ病」はかなりの重傷のようで、その病気の前に、もう一つの重大な病いに犯されている事が判明。
それはちゃんとしなきゃと思う前に必ず何かしら「やらかして」いるのだ。
それは「あっ、やばい。やってしまった」「あっ、まずい。買ってしまった」「げ、言ってしまった」などと、自分のやった事に対して、大きく後悔をする事である。
これを「しまった病」と呼ぶ事にしよう。
つまり、私のばあい、「しまった病」が発病してのち、すぐに「ちゃんとしなきゃ病」に転移するのである。
それはやってしまったと思い込んでいる事に対して、その場をとりつくろうと言う、いささか情けない精神構造から成り立っている。
どうも小さい時から「あっ!やっちゃったー!」と思う事がひんぱん。
たぶん、親に「こらあ、なにしよらあーッ」「あんた、なにしゆうがーっ」といつも怒られてきたからに違いない。
でも怒られた本人、その時何をしていたのか気がついていない。だからいつも唐突に怒られる。
そのため、いつもびくびくしていた。つまりこのびくびくするという心理は、私は自分が知らない間に何かをしでかしているかもしれないという恐怖にいつもおびえていたということだ。もっと言うと、自分というものが信用できないのだ。だって、ほっておいたら、何しでかすかわかんないんだもの。こりゃ、厄介なお荷物をしょってしまったものだ。子供ながら、そんなお荷物の自分がいやになった。これを自己嫌悪という(しっとるわ)。
そんな気持ちでいるものだから、いつも自分を見張るようになった。それが「監視人」を生み出した理由だ。そのりっぱな監視人を雇っているにもかかわらず、雇っている本人に似て、これがまたボケている。彼は本人がやらかすのを見とどけてから注意するのだ。「ほら!またやった!」と。
あんたねえ。監視人なんだから、やる前に注意しなさいよ!と、おもう。でも結局それを生み出した本人がボケているのだから、その監視人がデキル監視人なわけがない(笑)。
だからいつもやってしまったあとで「ほらほら!」といちゃもんをつけるだけなのだ。
私は、そのわけのわからないモンスターたちを飼い続けるのがだんだんいやになって来た。
だいたい「しまった病」も「ちゃんとしなきゃ病」も「監視人」も、自分が失敗する事を怖れているから作り上げた代物なのだ。もっといえば、「かっこつけている」だけなのだ。
世の中、デキル女がかっこいいし、成功する人生がかっこいいし、老けているよりは若い方がいい(なんのこっちゃ)。
でもそれも勝手に自分が決めた事。こうじゃなきゃいけないと思い込んでいる妄想。
庭で虫をバシバシ木にぶちつけて食っている鳥たちは、そんなこと気にするだろうか。うちの犬のユタは、道路が凍ってつるつるで、足がもつれてすってんころりんとなっても、シラッとして恥ずかしい顔一つしない。そこには自己顕示欲やかっこしいのカケラもない。
ニンゲンは余計な事で、余計な労力をいっぱい使っているんではないだろうか。私からかっこしいをとったら、「ちゃんとしなきゃ病」も「しまった病」も必要なくなるんではないのか。自分が信用できないのは、たんに失敗を怖れる事から来るのではないだろうか。
失敗すりゃいいじゃん、私。
それをそのまま受け止める事が、あすへの勉強になるのだ。失敗は、勉強するためのきっかけにすぎないのかもしれない。やっちゃったと言って、その場をとりつくろう事なんかしてたら、いつまでたっても学べないのだ。とりつくろう事で、その場がごまかせて、本人はホッとするだろう。でもそれは勉強にはならない。単にとりつくろうという、いつもの繰り返しだけで終わる。
「ありゃ、やっちゃいましたか。こりゃ、失礼」と、平然と言う勇気がいるな。
みんな、人に迷惑をかけて生きているのだ。
迷惑をかけて生きているんだという事を認める勇気がいるな。
人は、動物食って、植物食って、バクテリア食って、水飲んで、空気まで吸って、生きているんだもの。動物にとっても、植物にとっても、みんなにとってもそりゃ迷惑な話だよな。「オレは迷惑はかけないぜ」なんてかっこつけてらんないさあ。
今も企画を出した絵本が出版社から戻って来てしまった。
ははは〜、泣くな私。
いつか誰かに会えるために、また一歩前進したのだ。
絵:レタスクラブ「お金の本」より
2009年1月29日木曜日
日本のワイン
生まれてはじめてイタリアを旅してからというもの、ワインの虜になった。
くわしい事もうんちくも何もわからない。けど好きなのだ。だからニューヨークでいた頃はよく飲んだ。その後高尾のお山のふもとに住んでからは「もう大好きなワインとは縁を切った」と思っていたのに、日本にはこだわりの人があちらこちらに隠れひそんでいるものだ。
八王子駅近くの、和飲”つかもと屋”のご主人は「フランスのワイナリーを最も多く歩いた日本人」という形容詞がつくくらいのワイン屋さんのプロである。
おっとりした雰囲気は、とても一人でフランス中を駆け回るアクティブな人には見えない(失礼)。でもいったんワインを語らせると、デルワデルワいろんなお話。何を聞いても答えてくれる。ちょっとイジワルな質問をしてもこれまた真摯に受け止めて(笑)ちゃんと答えてくれる。で、ちっとも偉ぶらない。
フツー、その道の通は、知っている事を聞かれたりすると、
「おうおう、それはなあ〜」
と、オードリーの春日みたいに、胸がそり返るもんだが、つかもとさんは、細々としゃべる。へんに聞きかじって好き勝手しゃべる私みたいなやりにくい客を相手に、ハラも立てずににこにこと付き合ってくれる。
そんなご主人がめずらしく「これ、お勧め」と、日本のワインをすすめてくれた。
それは「マスカットベリーA」という日本品種の赤ワインだった。
ニューヨークから帰ってまもなく、勝沼に立ち寄った際、はじめて甲州種という日本原産のぶどうによるワインを飲んだ。日本のワインと言えば、「赤玉ハニーワイン」ぐらいしか記憶にない。あの甘ったるいワインは大人になって一度も口にした事がなかった(お−い、子供の時にでも飲んだのか!)。
だから、勝沼のワイナリーで、その白ワインにであった時、あまりの美味しさにびっくりしたのだ。しかも日本のワインは保存料の規定が厳しいのか、いくら飲んでも悪酔いしない。口当たりがよく、本当に和食に合う。NYから帰って間もない頃は、よくまとめて勝沼から送ってもらっていたものだった。
ところが、赤ワインに関しては、私としては正直言って飲めたものではなかった。せっかくだから日本のワインとなれば日本の品種にこだわって飲みたい。だけど、
「う....、白が美味しいのに、赤はこれかあ...。でも、日本だものしょうがないのかもしれない」とあきらめたのだ。
NYの北の方にあるワイナリーに行ったときもそうだった。白は美味しいが赤は飲めたものではなかった。つまり白は湿度のある所のぶどうでも美味しいが、赤ワインはだめなのかもしれない。
イタリアやカリフォルニアのような乾燥地ではない、湿度の多い日本の赤ワインは飲めないのかもしれない、と思っていたのだ。
つかもとさんがすすめてくれたのは、まさにその、私が飲めなかったマスカットベリーA種だったのだ。
「いや...これはちょっと.....」思わずあとずさりする。
なんつーか、田舎臭ーい、泥臭ーい味を覚えている。
ご主人は私の舌の好みを知っているはずである。だからそんなものを勧めるにはわけがあるはず....。
じつはそのワイナリーの若ご主人が、何年間かフランスのワイナリーで修行して、日本の品種のぶどうのワインを変えていこうと試みていたものだったのだ。そしてついに出来上がった新しいマスカットベリーA!
あろうことか(失礼!)美味しいのだ。さわやかであとからこくがやってくる。ぜんぜん赤玉ハニーワインなんかじゃなかった。あとからあとから飲みたくなる。すこーし甘みが残っていると言うが、私には全然気がつかない。
「これ、すき焼きに合うと思わん?」というご主人。よく言ってくださった。絶対に合う。つかもとさんはそうとういやしい。
不思議なことに若々しい味がする。このワイナリーのご主人の若さが味に入っているのだ。
「これから時間をかけてこのワインはもっと熟成されていくんだろうね。これからが楽しみだよ」
今までそんなふうにワインを味わった事はなかった。作り手の成長もいっしょに見守っているのだ。ワインも生き物なんだなあと感じる。買って寝かせるだけが熟成じゃないのだ。作り手が熟成していくのといっしょに、ワインもその熟成度が高まっていくのだ。
じゃあおばさんも、その若ご主人を影から応援しようじゃないの。
いやいやこれだから『日本人』はやめられない。うんちくたれは、そこやらここやらに、かくれひそんでいるのだ。
追伸:そのワインの名前は、『シャンテますかっとベリーA』といいます。くわしいことは、つかもとさんに聞いてね。
2009年1月27日火曜日
バードウオッチング
こうしてコンピューターに向って仕事をしていると、庭に鳥たちがいっぱいやって来るのがみえる。
高尾山の麓にへばりつくように家があるものだから、あいつらはうちの庭を高尾山の延長だと思っているらしい。見た事もないようなハデな着物を身に着けた団体さんが次々とやって来ては、ウチの木の中に住む虫をつっついている。今も庭に、シジュウカラ、ひよどり、メジロの団体さんがいる。
彼らを見ていると動きが速すぎて何をやっているのかわからない。それでもがんばってじーっと見ていると、自分の体の5分の1くらいの大きさの虫を木の中から引っぱりだして来て、バシバシと虫を木にたたきつけ、虫がきぜつしたところ(?)をがぶがぶと丸呑みにしている。おもわず「たのもしいなあ〜」と感心する。
あれだけの運動をニンゲンがしたら、さぞかし体力を消耗するだろうな。私が自分の5分の1ほどもある巨大な虫を口でくわえて、頭を振って虫を地面にきぜつするまでたたきつけ、それをがぶのみにする。そんな行為をしたら、近所の人に白い目で見られるだろうな。鳥さんがやるとかわいいと思うけど、人がやると妖怪かなにかにまちがわれる。
この地球には、小さいものほど動きが早くって、大きくなるほど動きが遅くなるというような法則があるのかもしれない。だってそれがないと、ウシに鳥ほどの動きをされちゃあ、ニンゲンたまんないもん。
と、丑年の私は自分ののろまなことをこれで言い訳にしている。
絵:今年の年賀はがきより
2009年1月22日木曜日
バベルの塔
言葉というものは、難儀な道具である。
むかしは、「阿吽の呼吸」なんちゃって、
「あ?」と、一声いえば「うん」と答えちゃうくらいわかりあえたはずだった。
つまりは、1言えば、10わかるくらい優れた民族だった日本人。
ところが今は、1言っても、0.5わかればいい方だ。
畑で棟梁がいう言葉がちっともわからないのは、私の中に想像力が鈍って来たからなのではないだろうか。昔の人なら「そこをそうする」といわれると、「ああ、そこをそうするのね」と手に取るようにわかる。それは、言葉の後ろにある思いが、すでに伝わっているという事だ。
ニューヨークにいて気づいた事とは、英語とはなんと説明の多い言葉だろうかと思った事だった。
たとえば
「コップを手にする」という日本語を英語にすると、
「私は、机の上に置かれたコップを、手によって、持つ」などという、いちいちめんどくさいいいかたをする。必ず主語を言わなくてはいけないし、どこに置かれたものか、どうやって持つか、なども言わないといけない。
でも日本語は「コップを手にする」というだけで、「私が」という事はわかっているし、どうせどっかの上に置かれたものであろうこともわかっている。だから短い言葉でこと足りる。
そういう言葉のシステムだから、彼らアメリカ人は早口でものすごい量のことばをしゃべるのだ。
デリカテッセンにいくと、長々と店のおっちゃんに何かを注文している人たちを見かける。さぞかしスペシャルなサンドイッチをたのんでいるんだろうとおもいきや、
「パンに、ハム、レタス、トマト、それにオニオンも入れて」と、パンに挟むものをいちいち言っているだけの事。ま、そこまではいいとして、そこに「塩とコショウも入れてね。ああ、それにマヨネーズも」までも言わないといけない。
日本人からすれば、「サンドイッチだろ?塩はいいとしてコショウは入れるし、マヨネーズはあたりまえやん!」とツッコミを入れたくなる。
だからアメリカに来て初々しい観光客の日本人が「ハムサンドイッチをください」というと、
パンにハムを挟んだだけの、塩こしょうもレタスもオニオンも、マヨネーズもない味気なーいサンドイッチをもらうはめになる。(そりゃ、私か)
アメリカにはいろんな趣味思考があるし、コショウアレルギーや、卵アレルギーなどの体質の人もいる。おまけに告訴の国だ。何で告訴されるかわかったもんじゃない。
だからすべてを言わなければいけない。
これじゃ、何かそこに「スペシャルなおまけ」みたいなものが期待できないではないか。パンの中に言われたものだけが入っているだけの事だ。つまらん。(たまに聴き取れなくて、肝心のものが入ってなかったりするが)
日本の店のように、客がカウンターに座るなり、
「おう、おやじ。てきとーにたのむよ」
と言うと、カウンターの向こうで、ねじり鉢巻した主人が、
「あいよ。今日は生きのいいのが入ったからねえ〜」
お客は何がやってくるのか楽しみで、心がほくほくする....、となるはずが、
「何だと?オレは魚アレルギーなのだ!」と、告訴されてしまう事になるかもしれない。
つまり「あ」と言えば「うん」という呼吸は、その前提に「みんな同じ価値観」があったからなのかもしれない。
日本は戦争に負けてのち、どどどーっとアメリカの文化が押し寄せて来た。ついでにありとあらゆる価値や思想や思考も雪崩のごとく入って来た。そして個人というものを教え始めた。個人の考え、個人の価値、個人の趣味思考、家族は核家族になり、子供たちにはカギ付きの部屋が与えられる。テレビは一人に一台になり、情報は個々人が、それぞれ受け取っていく。
当然、子の考えは親の考えとは違ってくる。今、おばあちゃん、おかあさん、むすめ、たった親子三代の中だけで、すべての価値観が違っている。話が通じないのだ。
昔はそうではなかったはずだ。こんな時代は日本の歴史始まって以来の事なんじゃないか?
いや、きっと世界中が。
今はまさに「バベルの塔」のような状態なんではないだろうか。となりの人の言葉がわからないのだ。娘の言葉がわからないのだ。
私はふと「バベルの塔」に住んでいた人々は、一つの言葉を話していたというが、それは言葉ではなくて、心が見えていたのではないだろうかと思った。お互いの心が読めたのだ。だから何を考えているのか手に取るようにわかる。まさに「あ」と言えば「うん」なのだ。けれども神はニンゲンの傲慢さをお怒りになり、おたがいの心が見えなくされた...。
となりの人の心が読めなくなった。これほど心細い事はない。相手が何を考えているのかわからないのだもの。
言葉というものは、ひょっとしたら、そのお互いの心がみえなくなったからこそ、生まれた道具だったのかもしれない。
手を見て、「これは『手』と呼ぶ事にしよう」、水を見て「これは『水』と呼ぶ事にしよう」と、お互いが約束事を始めた。
その道具も長いこと使い古されて、その限界がきているのかもしれない。今人々は徹底的に、言葉の後ろにひそんでいるものさえ感じ取れなく、見えなくなってしまったのだ。
「バベルの塔」事件ののち、言葉が通じなくなって世界中に散らばった民族は、ついにお互いの中でもわかりあえなくなって来た。
これからいったいどこへいくのだろう。
私は、やがてその道具は必要なくなる時代がやってくるのではないかと思っている。
すべての人々が、またお互いに心が見える時代がやってくるのではないかと。
絵:中学校教科書『現代の国語2』より「走れメロス」
2009年1月19日月曜日
裏高尾のボブ・サム
「お墓、きれいにするから」と、棟梁は言った。
「え〜」と、私たち。
ど素人軍団の私たちとしては、畑の開墾当初に、密林と化した畑の中から倒れて埋もれていた墓石を救出し、その場に立て直しただけで、その任務は十分果たしたと思っていた(思いたかった)。そう思いたい気持ちとは、つまりアレは「触れてはいけないもの」という気分があったのだとおもう。だからどっちかというと「そのうち棟梁、忘れてくれるやろ」と願っていた。
ところが棟梁は、先週あたりから、お墓のまわりの竹や葛の根っこを掘り起こしはじめた。
友達のおばあちゃんが、棟梁に頼まれてお墓まわりの根っこを掘り起こしはじめる。私たちも手伝わないわけにはいかないじゃないの。
下に何があるかは、わかっている。でも竹の根は全部ぬかないとまた出てくる。おっかなびっくりお墓のまわりを掘りはじめる。でも根っこはお墓の下をさけて通ってはくれない。葛の根っこを引っぱれば、目の前にある墓石がぐらぐら揺れる。ひえ〜。
「ここ、ぜーんぶきれいにするからねー。平らにするからねー」と、棟梁はうれしげ。
これがまたここに限って、葛や竹の他に、イバラや木の根など、他の場所にはないほどに人口過密地帯だった。そりゃー、そーだろう。下に栄養素があるんだもん....。
そのうち土台を平らにするために墓石を全部どけた。ここまでくりゃ、徹底的にやるだけだ。全員が集まって、うんしょうんしょと根っこと格闘する。根っこを掘るうちに、下からまた新たな墓石出現。その台座も出てくる、デルワデルワ、わけのわからない大きな石、石、石....。
棟梁には、じつはいくつかの問題点がある。そのうちの大きな問題点の一つは、
「なにいってるのかさっぱりわからない」のだ。
「ここをこうするんですよ」「そこをこうするんですよ」という。そこもここもわからない。
「え?え?棟梁。それってどういう意味?」と聞くと、
「だからここをそうするんですよ」と同じことを言う。
しょうがないから、棟梁のする事をまねる。そこで、ああそうか、そこをそうするのか、とわかる。でもなぜそうするのかがさっぱりわからない。
根っこをほじくっているのと同時に、墓石の手前1メートルあたりに溝らしきものを掘りはじめた。大きな石を置くと言う。何がしたいのかわからないまま、みんな棟梁についていく。同時進行的にすべての事を進めていくものだから、自分が今なんの作業をしているのかわからない。でもみんな文句一つ言わずについていく。
そのうちだんだん全体像が見え始めた。小さな石垣を作って、墓石を一段上にあげようと言うのだ。その下に人が鑑賞できる通り道を作り、その一段下にはお花を植える。
棟梁は石を一個一個吟味をして、どう並べたらいいのか気を配る。だてに趣味で盆栽を3億円もかけてやってはいない。石の配置までこだわる。ブロックと違って、自然のものは一つ一つ形も色も違う。その違いを楽しむかのように、一個一個立てながら並べていく。大胆で繊細な角度や配置が要求される。
そのうち石垣は、出っ張りも引っ込みも味になってきた。オモテとなる石のウラにはそれが倒れないように補強の石たちを置く。これもまたむずかしい。ジグソーパズルのように、出っ張りと引っ込みをぴったり合わせなくてはいけない。私はその大役を仰せつかって、ひと汗かいた。
その石垣の後ろに土を入れ、墓石があった場所すべてを平らにし、きっちりと計って水平にまっすぐ墓石を並べた。まだ土の上に砂利を入れるという作業が残っているが、二日かかって、まあ、なんとみごとなお墓が完成したこと!
安土桃山時代から江戸時代にかけての10体ほどの古いお墓たちが、石垣の上に胸を張って並んでいる。
手前には、植え直した水仙の花がきれいに並んだ。
最初は「触れてはいけないもの」とおっかなびっくりだった私たち。こうやってりっぱな姿を見ると、誇らしく思う。ありがたい事に、一度も骨らしきものにも出会わずにすんだ。
でも墓をきれいにするなんて事、今の時代にその職業にでもつかないかぎり、やるチャンスなどない。棟梁といると一体何を経験させられるかわかったもんじゃない。これも棟梁の美意識(?)のおかげである。
墓をきれいにすると言うと、ある人物が思い出される。写真家星野道夫の話に出てくるアラスカにすむクリンギット族、ボブ・サム氏だ。
10年という歳月をかけ、荒れ果てて見捨てられていた墓地を、たった一人でコツコツと復元し、5000という数の墓をきれいにしたのだ。彼の無償の行為は、知らない間にクリンギット族の若者たちに影響を与えていた。今、かれらは西洋の文化から、自分たちの伝統的な文化に目覚め始めたと言う。
棟梁は誰に頼まれたわけでもないのに、墓をきれいにし始めた。棟梁にこむずかしい思想はない。もし彼を動かす思想があるとしたら「お墓をきれいにすると、なんかいいことあるさあ〜」の思想だけである。(単なる欲?)
そんな彼の言葉でよく出てくるのは、
「山をきれいにすると、山の神様がよろこぶさ〜」
これも彼の「思想」?
以前、彼といっしょに山の木を整理していた時、何とも言えない喜びを感じていた。きっと昔の人々も同じ心持ちだったに違いない。彼の中には、山の上で生まれ育って身につけた、理屈抜きの自然へのとてつもない畏怖の念がつまっている。
私たち現代人が遠く忘れて来てしまった自然への心を彼はまだ持ちそなえている。今いっしょに畑をやっている私たちは、その棟梁に昔の日本人が抱いていた魂の記憶をかいま見せてもらっている気がする。
ちょうどボブ・サムがよみがえらせたクリンギット族の魂の記憶のように。
彼はまさに、裏高尾のボブ・サムなのかもしれない。
(ちと、ほめすぎたかのー)
絵:ペーパーバック表紙 ちょうどお墓の絵があった。なかなかお墓の絵なんか描かないもんね。
2009年1月14日水曜日
スローな私
私は小学校を卒業するまで、のろまだった。
「スロー」とか「のろま」が私の形容詞。頭のねじが10本はかるく抜けていたと思う。
何をするにもぼーっとしていて遅い。
体育の授業で、教室で着替えて校庭に出てくるのに、40分かかったこともある。やっと体育の授業の仲間入りをしたかと思うと、5分で終わってしまった(笑)。
「つくしちゃん、いままでなにをしていたの?」と先生。
「うん。教室でお着替えをしていたの」と私。
まず上着をぬぐ。それをたたむのに時間がかかる。つぎにスカートをぬぐ。それをたたむのにも時間がかかる。
それから体育服を持ち上げて着る。すると、前とうしろが反対だった事に気がつく。
「あ、いけない。後ろ前になってる」と、ぬぐ。それから、また後ろ前を気にしながら着る。
すると、今度は裏返しに着ていた事に気がつく。
「あ、いけない。裏返しだった....」と、ぬぐ。それから裏返しを直して着ると、今度は後ろ前の事を忘れている。着てみるとまた前後ろが反対。
「あ、いけない。後ろ前になってる....」と、またぬぐ。そして今度は、裏返したまま着る。
そしてまた「あ、いけない。裏返しになっている...」とまたぬぐ......。そしてまた....。
本人はどんどんあせってくる。するともっとパニックになって、なにがなんだかわからなくなる。そうやって、やっと全部着替え終わった頃には40分がすぎていた。つくしちゃんは、その時点でものすごい体力を消耗していた。(これが体育の授業のようなもんか)
一事が万事そんな風だから、授業もろくに聴いていない。
母方のばばあちゃんが、ウチに遊びに来ていると、下校の時刻がなってもつくしはウチに帰ってこない。心配して学校に向うと、彼女は必ず職員室にいた。
そんなときはたいてい授業を聴かずにぼーっとしていたから、先生にしぼられていたのだ。ばばあちゃんは、恥ずかしい思いをしながら彼女を連れて帰ったと言う。
そんなつくしちゃんだったが、ちょっとがんばってみた事もある。
あるテストの時間。
彼女は考えた。「いつも遅い遅いと言われるから、今日は早く出そう」
テスト開始から5分もたたないうちに、つくしちゃんは先生の所に答案用紙を持って来た。
「先生。出来ました」
「あら、いつもよりずいぶん早いじゃないの」先生は彼女の答案用紙を見た。名前以外、何も書いていない。先生はやさしくこう言った。
「つくしちゃん、ここには何も書いていないわね。まだたっぶり時間はあるわよ。じっくり答えを考えて書いてらっしゃい。」
すると彼女は、また10分もしないうちに持って来た。
先生は「まあ、もう出来たの?今日はずいぶん早いのね」と答案用紙を見た。
そこにはいっぱい文字が書き込んであった。でも、何一つ質問の答えになっていなかった....。
母は、その時の話をときどきして笑う。どうもその時の担任の先生が彼女の友達だったようだ。だから私の授業中の行動をチクイチ教えていたらしい。
大笑いされても困るのだ。そのとき、本人は必死だったのだ。
「早く出さないと!」という事が、その日は最優先された。それで今日の目的は達成されたはずだった。でもそのあと、先生に何か書けといわれたのだ。何か書かないといけないと思った。だから、何でもいいから書いて埋めたのだ。答えなんてわかるはずもない。じっくり答えを考えるなんて高度なこと、ねじが10本ゆるんでいたニンゲンにできるわけもないのだ。
最近マイブームになっているのが、小林正観さんという人の本。すっごくわかりやすい言葉で、すっごくわかりやすく書いてある。でもその簡単な言葉の中に深いものがいっぱい入っている。その彼の文章の中に「子供はぼーっとしているもの」というのを見つける。まさに私のこと。彼いわく、ついでに親もぼーっとしていろ、という。そのぼーっとしてる時間の中にいろんなものが育まれているのだと彼はいう。
まさに授業中ぼーっとしていた私は、心を宇宙のはてにまで飛ばしていたのだ。あの時間があったからこそ、今の私があるような気がしてならない。
そんな私もあれから時間とともに大人になって、ねじが緩んでいないふりをするワザも身につけた。けれどもここに来て、それにも疲れてきたような気がする。
今、その言葉を聞いて、そろそろ昔の私にもどろっかなあ〜、と、おもいはじめている。
今度道ばたで、ぼーっとしている私を見かけたら、
「ああ、つくしさんは、昔の自分にもどっているんだなあ」と、温かく見守ってやってください。
絵:オリジナル絵本「みっちゃんのたからもの」
2009年1月13日火曜日
おんぼろ小屋にりっぱなドア
かしいで、竹が中まで占領していたおんぼろ小屋に、棟梁が手を入れた。宮大工の本領発揮。
柱4本分の足元はアリに食われ、屋根の上からぶらさがっていた。いつ崩れてもおかしくないような状況だった。それを取り除き、近所の川から大きな平たい石を持って来て土台にし、新しい柱を入れて、小屋はまっすぐに立った。
そこに棟梁がどこから持って来たのか、すごい立派なドアをはめ込む。
「こりゃあ、80万円もするりっぱなやつだぞ」と自慢げ。
今日は柱とドアをつけた。壁はみんなとりのぞかれている。ドアだけがえらい立派に輝いていた。
「なんだか、バーのドアみたいだなあ」と友達。
「ドアの前になんか看板つけたくなるねえ」と私。
「うん。『バー・棟梁』ってえのはどうだ?」と友達。
「誰も入りたくねえ〜っ」と、みんなで爆笑。
とにかく何でもかんでも拾ってくる。そこらにころがっているものを使う。
イノシシよけの柵の杭は、ウラの杉林で倒れていた杉やヒノキの芯の部分を使う。
まわりは腐って朽ち果てているが、木の芯に当たる部分はまったく腐っていない。その部分だけを残してあとはとりのぞいて、棒の一方を尖らせ杭にする。
「こうすりゃ、百年は腐らないぞ」だそうだ。私たちが死んで畑はなくなっても、このくいだけはのこっているということか。
そこへ近所の竹林から竹を切らせてもらってまわりを囲った。間に入れる金網はさすがに新品を買ってきた。あっという間にりっぱな柵が出来た。
畑の入り口への道は、最初は歩ける幅などないほど狭かった。下は崖になっていて、歩くとおっかない。そこにそこらにあった鉄パイプを杭の代わりにして、谷に打ち付け、朽ちていた杉を寝かせ、その上に砂利や土を入れた。去年の夏の豪雨で流れて来たたがれきを拾って来て、道いっぱいに敷き詰める。平らな所を上にしてていねいにがれきで埋めていく。そこにこれまた川にあった砂利を運んで来て上に乗せる。1メートル幅のりっぱな道が出来上がった。
棟梁の小屋を作ったり、畑を作ったり、道を作ったりしているのを横で手伝っていると、昔の人はなるだけそこらへんのものですべてを使ってなんでも作っていたんだなあと実感させてくれる。その行為は「リサイクル」というような、なまっちょろい言葉では言い表せない完全な説得力を持つ。
私はそれを横で見ながら、一体何を学ばされているんだろうか。
そこううするうちにおんぼろ小屋はどんどん変貌を遂げている。中まで占領していた竹は根っこから掘り起こされ、そこにほったらかしにされたいたサッシは取り付けられていく。屋根のとたんはさびでぼろぼろだが、壁やドアは立派。そのちぐはぐさが何とも言えない味を持って来た。
今まさに「チェインジング」している。
絵:『T&R』掲載
2009年1月9日金曜日
2009年1月8日木曜日
七草がゆ
きのうは七草がゆの日。
山と、人んちの畑のわきを物色して(こらーっ)七草を探す。
『セリ』は、いつも山水を汲む所からちょうだいする。
『はこべら』は、道路脇で。
『すずな』は、いつも野菜を買う、大好きな農家さんちでもらい受ける。
そこで『ナズナ』と『ゴギョウ』を畑の脇で物色させてもらって、嬉々としていただいて帰る。ついでにあつかましくも芋煮とお漬け物もごちそうになる。これがうまいのなんの。
『すずしろ』は友達の実家が作ったという大根で。
去年もそうだったけど、今年もまた『ほとけのざ』がどれかわからない。
結局「六草がゆ」になった。
去年は「ナズナ」がわからなくてしかたなく「五草がゆ」だった。
でも今年は、近所のおじさまのおかげで、「ナズナ」の正体が発覚する!
この調子でいけば、おそらく来年には、我が家の食卓は「七草がゆ」に昇進するだろう。
ウチは玄米ばっかり食べるから白いお米がない。だからおかゆの代わりにお餅を1センチ角に切っておかゆがわりにする。餅好きの私としてはこっちがいける。お椀の中で、お餅の白と草の青とのコントラストが美しい。ほんのちょっとのお塩とほんのちょっとのほんだしで味付けして、一年の健康を願っていただいた。
ある本によると、昔、土地の磁場を調節して歩く仕事を持っている人たちがいたらしい。磁場を調節する場所に来ると、その人たちはまずその土地に生えるそこいらの雑草を片っ端から食べるのだそうだ。10種類は食べるのだと言う。なぜそんなにたくさんの種類を食べるのかと言うと、その中にはその土地特有の毒草も含まれているかもしれないから。だからその他にたくさんの草を食べて中和させる。
そうやってその土地の草を食べてその土地と一体化し、そして呪術的な儀式を行い、磁場を調節していくのだ....。
近所で取れた六種類の草を食べながら、そんな職業を持っていたであろう人々に思いをはせる。「七草がゆ」の習慣は、薬用としての行事と、そしてあるいは、そんな昔の忘れられた風習から来ているのかもしれない。
絵:けんぽ表紙
2009年1月6日火曜日
ニンゲンウイルス
3日からまた畑がはじまった。
地面を掘り起こして柔らかくするにも、地面の下が凍っているのか、ものすごい固い。力一杯クワを振り下ろしてもちっとも地面に刺さらない。しょうがないんで、スコップでぐりぐりとやって掘り起こす。
5、6年前までこの畑にかかわっていた人が、近所の知り合いだった事が判明。
「あの畑はなあ、オレの血と汗がにじんでんだよ〜」と感慨深げ。あの真っ黒でほくほくの土はきっと彼の愛情の現れだったんだなあ。
それにしても、たった5、6年ほったらかしにしただけで、ああも自然に帰るのか。一体自然の力ってどんだけすごいんだ。
人の手が入らない瞬間から、竹や葛の根っこが地面をはいまくり、土の上をあっという間におおいつくす。そこに野性の動物たちが住みかを作り、ぱっと目にはそこがつい最近まで畑だったなんて、だれがわかろうか。
それを思うと、この東京という大都会でさえも、人がいなくなったなら、あっという間に自然に飲み込まれてしまうんだろうな、と簡単に想像できる。
私はニューヨークからここ高尾に来て、山の仕事に従事する人や、自然保護の人たちなどたくさんの人たちと出会った。その間にいろんな事を考えさせられる。同じ自然を愛する共通した心持ちであるにもかかわらず、組織やグループになるとそれぞれの考え方の違いで対立する。
山は守るために間伐しなければいけないのだ、という人もいれば、山を守るために木は切ってはいけないのだ、という人もいる。
でもそうやっていがみ合っているうちに、篠竹や葛は、もりもりと根を生やして領地をたくましく広げていく...。
近頃「このままでは地球は滅亡する」とか「地球が泣いている」とか言う言葉を聞く。
フキンシンな私はそんな言葉を聞くと思わず笑っちゃう。
地球はそんなに弱っちいのだろうか?
海辺で育った私は、水平線が大きな弧を描いているのを知っている。それは地球の輪郭の一部だ。その弧の延長線が地球の大きさ。それをイメージすると、めまいがするほどでかいのだ。
地球さんにとってニンゲンという種は、ごぞごぞと肌の上をはいまわるウイルスのひとつに過ぎないんではないだろうか。そのちょっとばかしうるさいウイルスが、今地球さんのお肌を乱している。
「なんだかかゆいわねえ...」と、思い始めているのかもしれない。
ひょっとしたら地球さんはそんな種を見ながらあくびをして、
「そろそろここらで、くしゃみのひとつでもしてやろうかね」と考えているのかもしれない。
あの巨大な地球さんが、もしくしゃみひとつでもしてもらっちゃあ、ニンゲンウイルスはひとたまりもない。あっというまに宇宙の果てに飛ばされて、宇宙の藻くずと化す。飛ばされたついでに、火星にでもしがみつければいいんだけれど。
私たちの科学では、いまだ地球の中は何もわからない。どこまで掘っていっても、せいぜいスイカの薄い皮の部分までしか掘れないと言うではないか。そんな軟弱なウイルス種が
「おれがもっている核で爆発おこすぞー!」と脅しても、たんに自分に降りかかってくるだけの事である。
話が飛んじゃった。
結局、私たちの言う「自然」とは、ニンゲンにとって都合のいい自然(環境)をほしがっているだけの事じゃないのだろうか。
それを言葉だけとれば、人格的にすばらしいように聞こえる。「地球にやさしく」とか「自然を守れ」とか。
でもほんとは「ニンゲンにやさしい地球になってほしい」とか「ニンゲンにやさしい自然を守れ」がホンネじゃなかろうか。だって温度がちょっと上がっただけで、ちょっと下がっただけでヒーヒー言ってんだよ。極寒になろうが極熱になろうが、大自然は大自然じゃないか。
自然とはもともと荒々しいものなんじゃないだろうか。そうやってたくさんの文明や生き物を飲み込んで来たダイナミックな生き物なのではないだろうか。
ニンゲンとはとても弱っちいもんなんだ。
まずはそのことを謙虚に受け止める事なんだろうな。巨大な自然に寄生するように生きる小さな生き物なのだから。
絵:大京観光月刊誌『ELSA』
2009年1月4日日曜日
あけましておめでとうございます
新年あけましておめでとうございます。
今年も皆様方にも私にも、ますますよい年でありますように。
と、昼間っからお屠蘇を飲みながらほろ酔い気分であります。
例年なら、いちおーおせち料理作ってお重につめてそれらしくやる私。母の影響で、ニッポンのでんとー文化というものを継承しようと長年頑張ってやって来た。ニューヨークでいるときも、無理矢理それらしくやって来た。でもここに来て、待てよ。と思った。ま、早い話がお正月を準備するお金がない、ということなのだが。
でもそういう時にしか、人は何かしら考えない。切羽詰まらないと、頭も体も動かないもんだ。ヘタにお金なんかあったら、そのまんま同じことを繰り返すじゃないか(単なるへ理屈か?)。
市場に行って数の子を見る。「数の子は子孫繁栄〜」と言って手に取ろうとする。でも待てよ。毎年数の子食ってんのに、うちには子供がいないじゃないか。「黒豆煮て、まめまめしく〜」って、別に黒豆食べなくてもまめに働く事は出来るじゃないか。
昆布巻きで、よろこぶ〜って。昆布巻きなんか食べなくても、よろこぶときはある。
おいおい。これは単なる語呂合わせだろ。しかも日本語。日本人にしか通じないじゃないか。
ひょっとしてひょっとしたら、ある時どっかの誰かが「あっ、これ語呂合わせでおもしろ〜い」って始めた事を、となりの人が「あっ、それ、いい」ってとなりの人もやりだして、それを見たとなりの人が「おお、それはいい」と始めた。それが広がっていつのまにかみんながやり始めてそれが伝統文化のはじまり.....?
つまり伝統文化はどっかの誰かの、たった一人のアイディアが、あっちやこっちからたくさん集まって出来て来たもんじゃなかろうか。
でも、それが何か真実に近いモノなら、腑に落ちて消えないで続けられていくのだ。お正月のいろいろなしきたりや形は、きっと何かしらの宇宙的な真理をついている。だからこんなに長く受け継がれて来たに違いない。
けれどもいつのまにかその伝統は、たくさんの形式を生み出した。アメリカで一度過ごしてみると、日本の伝統のなんと複雑な事か。決まり事がものすごく多い。日本はコトアゲの国、見立ての国。なんでもかんでもありがたいものや縁起を担いだものを作って、新年の神様をうやうやしくお迎えするのだ。その有り様は、世界に類を見ないと言っていいだろう。
ところが「ちゃんとしなきゃ病」の私は、いつのまにか「こうしないと縁起が悪い」とか「これやってないとお正月を迎えられない」とか思い始めて、それが強迫観念のようになってしまっていた。だから年末は何かしら慌ただしい。たぶん心が「あれしなきゃ、これしなきゃ」と忙しかったのだ。
じゃあ、いっぺんそんなものやめてみたらどうなるのか。
ここまで洗練されなかった時代に戻ってみるのはどうなのか。出来るだけお金を使わない方法をやってみた。
畑のそばの枝おろしをしたヒノキの葉っぱなどを駆使して、神棚の飾りに使ったり、水回りの輪飾りの代わりにする。ヒノキは神聖な木なので神様もお怒りにはならないだろう。お花も1000円の安いものに、庭に咲いていた南天の紅白を入れた。豪華になった。おせちもうちにある野菜で作った。自分で自分なりに「こうすれば神様は喜んでくれるかな?」といろいろ想像を膨らまして飾り付けた。
すると、なんと言うことだ。それで十分事足りてしまったではないか。ちゃんとお正月になってしまったではないか。
ひょっとしたら、これが本来の神様の迎え方なんじゃないんだろうか。いつのまにか形にばっかり囚われて、本来の目的である「うやうやしく神様をお迎えする」ことが、気持ちの入らないものになってしまっていたかもしれない。本末転倒だ。
ありとあらゆるものであふれてしまったこんな時代。いっぺん白紙にして素朴な所からはじめてみるのも心の整理としていいのかもしれない。
今年は、そんなことを考えてみる年にしたいなあ。
そんな私ですが、今年もみなさま、よろしくお願いたします。
絵:『T&R』掲載