2008年11月14日金曜日
肉体はコンピューター?
この肉体は、ホントはコンピューターなんじゃないか?と、おもう。
電源のいらないパソコン。机の上に鎮座していなくて、一人でぶらぶらほっつき歩けるパソコン。
電気の変わりに食べ物。足りなくなったら、勝手にバッテリーを補給している。
コードがない完全に独立したコンピューター。
まだ生まれたばかりの新しいパソコンは、何でもかんでも吸収する。
一番身近にいる親が、情報の吸収源。親のやることなすこと考えること、全部、真っ白なデータにインプットする。何を食べるか、どうやって寝るか、どうやって生活するか、いつも何をしゃべっているのか。人が、ニンゲンという種類で生きていくのに、ひととおりのルールを身につけるのは、たいてい親からだ。
オオカミ少女や少年は、その素材がニンゲンという種類であっても、オオカミに育てられると、オオカミのような動きをするし、オオカミの感性を手に入れる。これもインプット。カルガモの赤ちゃんが最初に見たものを追いかける。これもインプット。
だからその人が、あることに対する反応は、たいてい小さい時に親からもらったり、身近な人がやった反応をマネして身につけたもんじゃなかろうか。で、最初にインプットされちゃったもんだから、後生大事に保管して、ずっと使われ続けているんではないだろうか。
だから似たようなことが起こると、インプットされたデータによって、「これは以前、似たケースがあったから、これが有効だろう」と、前と同じように反応をする。
私の友達のお父上は、政治家が大嫌い。常に社会のここがいけない、あそこがいけないと憤慨している。今の教育はなっとらん、今の社会はなっとらんといつもいっている。
で、案の定、友達も憤慨する。小さい時から聞いて来た言葉だ。しっかりインプットされた。
私は、父や母から、社会がなっとらんとは聞いたことがない。だから社会に対する不満はあまり持っていないようだ。しかし、両親に「ちゃんとせんかあ〜ッ!」って、怒られてばかりいたから、逆に、私は「ちゃんとしていないんだ」とインプットしてしまった。
で、幼い頃にインプットした反応や感情はそうやすやすとは取れない。なぜなら、すべては無意識の中に奥深くはまり込んでしまってるのだろう。そのインプットを意識もしない。ところが、大きくなって小さい時に身につけた反応は、だんだん有効ではなくなってくる。
「おっかしいなあ、この感情は今まで使えたのになあ...」と、葛藤が起こる。
あたりまえだ。それはもう古いのだ。何しろ30年から40年も前に入れたデータだ。
ところが、もうすでに入ってしまっているジャンルに新しいデータを入れようとすると、
「ここはすでに満室です」と入れてくれない。
で、新しいファイルを作っていれても、
「社会=憤慨する」とインプットされたもののパソコンに、
「社会=憤慨しない」という相反するものを入れるとなると、コンピューターはどっちにいっていいのかわからず、こんがらがるのだ。
なので、とってもややこしいが、昔入れたデータを消去しなきゃいけない。
そうじゃないと、太いパイプでつながったなじみ深い反応に、勝手につながってしまうのだ。
私も「ちゃんとしていない」とインプットされた太いパイプでつながっている無数のデータを、少しづつ消去している最中だ。
でもそう考えると、じつは人の感情や反応は単純なところから来ているのかもしれない。
単に体の一番上の丸いボールの中にある、有機的なコンピューターが、ある法則にもとづいてすべてを動かしているだけだ...としたら?
そのマシーンの理屈がわかれば、個人で奥深く抱え込んだ感情も、外から見られるようになるかもしれない。
絵:けんぽ表紙「秋」
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