2008年8月18日月曜日

絽の着物



京都でいる時、北野天満宮の骨董市によく行った。そこで古着のきものをよく買った。その中でお気に入りは、絽のきものだった。
日本人は夏の過ごし方をよく知っている。透けた絹織物は、見た目にも本当に涼しげ。

それにしても日本のものっておもしろい。
洋服を着慣れた現代人にとって、きものは拷問に等しい。あんな直線断ちの服を、よく曲線だらけのニンゲンの体に着せられるものだとおもう。西洋人の洋服の仕立て方は、体の曲線に会わせて作られているからそのままの体のカタチでいい。ところがきものは、こっちがそのカタチにあわせていかなければならない。実に不合理。けれどもどんな体系の人にも着せられるし、ほどいて作り直す事も出来る。それになにより、ある種の緊張感が身のこなしを美しくする。先日、盆踊りのためにゆかたを着たが、なんだか心が豊かになった。見た目にも華やかだ。
道具にしてもそうだ。お箸は細長い二本の棒をあやつって食べる。フォークとナイフは手で握りしめるだけでいいが、お箸は指の先に神経を使う。ここらへんにも日本人の指先の器用さが出ている。西洋の道具は誰でも使えるように作られている。しかし日本の道具は、使いこなさなければイケナイのだ。それを使いこなす間に、何か、単にフォークを握りしめるだけではない、洋服を体の形に合わせてただ着るだけではない、何かが入り込んで来るのだと思う。
不合理は、たどっていけば、真の合理性につながっているのかもしれない。

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