2024年6月28日金曜日

お通夜の晩の疑問

あじさいと妖精

 

うちは父と母が離婚しているので、父の葬儀は真言宗、母の葬儀は浄土真宗でやった。

ついでに言うと、うちのダンナの家は曹洞宗。もうぐちゃぐちゃ。


宗派によって位牌の扱いが違う。

真言宗のお坊さんのお話によると、お骨と位牌では、位牌の方が格が上。

魂が入っているからだとのこと。


浄土真宗は、位牌は名前。別にそこに魂が入っているわけではない。

(あくまでもそれらのお寺のお坊さんから聞いた話なので、本当にそうなのかどうかは知らない)

位牌が大事ではなく、その後ろに脈々とつながっている過去帳、血族があって、その血族の先にいる阿弥陀さまに通じている道だと言う。

(あくまでも私がお坊さんから聞いた話を勝手に解釈しているだけです。しつこい)


それぞれの宗派は微妙に扱いが違うが、初七日と、四十九日や、初盆、一周忌、三回忌、七回忌、などはおおよそ一緒らしい。


仏教の教えを作ったブッダは、自身の葬式について「葬式などやらんでいい。やりたい誰かにやらせとけ」とかなんとか言ったらしいことからすると、

日本にある仏教の葬式一連の形は一体どっから来たんや?と思うに、

「ああこれは、死んだ人のためっていうよりは、残された人たちが、身内の死をどう受け止めていいかわからないことへの思いやりから来ているのではないか?」と感じた。


死出の旅路に着くには足袋を履かせ、

ありがたいお経を聴きながら、お線香の煙を頼りに徐々に天空に登っていく。

四十九日までは、ここらあたりをうろついて、みんなに挨拶していき、

納骨が終わってから天に召される。

お盆には送り火をたいてお迎えをし、またお見送りをする。


ああ、お父さんは今頃ここにいて、こういう境地にいるんだな、

という考えをもたらされることで、残った人たちの心を納得させ、安心させる。

そんな愛の思いで作られたのかもしれないなあと思ったものだった。




お通夜の晩、ダンナが面白い事を言った。


「遺体に喉が渇いたらいけないと口を湿らせたり、

寂しくないかと声をかけたりして、

お通夜には一緒に過ごす事をする。

さもこの中に人がいるかのようにしているのに、なんで焼くんや?」


その「いる」と思いながらも、「焼く」という行為をするのは、

どっから線引きされてんのや?と、

小学生が聞きそうな、いやしかし、一番痛いところを突くような質問が出た(笑)。


「ほんまやねえ~。どっから線引きされてんのやろ」


お通夜の晩、狭い部屋の中でダンナと二人笑いあった。



この世界がやることは、矛盾だらけや。











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