2022年3月31日木曜日

平安が両手を広げて待っている

 



うまくいかない現象に、心は動揺する。


この気に入らない現象を変えようと努力する。

ところがこの現象は変わらない。


その時、

現象は結果であって、原因ではなかったことを思い出す。


では原因はどこに。


心だ。


こうなってほしくない。

ああなってほしい。


と、切に願っているその心を見る。


なぜそう願うのか。


辿っていけば、そうであってくれたら、

私は幸せだと思っているからだった。


つまり私の幸せは、その現象次第ということになる。




おっと。

これはいつものパターンだぞ。


形が変われば幸せ。

形をゲットできたら幸せ。


この手の幸せは、一瞬で消える。

自我が私を手招きする「条件付きの幸せ」だ。


これを得られたらお前は幸せだぞお~。

そうやって、この現象界にいつまでもフォーカスさせ続ける、あれだ。


私は本当にそれをゲットしたいのだろうか。

じっと考える。

たとえそれがゲットできてもあっという間に消えるのを知ってる。


本当はそれじゃないんだ。

それが必要だと信じているだけだ。

つまり欠乏感の中にいる私を見た。


本当に私は欠乏している?

足りないものがあるのか?

ゲットするってことは、失うってこともついてくるぜ。



「ない」が先にあるから「ほしい」がやってくる。


その「ない」は、単なる信念だったら?

自我がささやいただけの考えに過ぎなかったら?



「無」は、「有」がない限り生まれない発想。

「無」から「無」は生み出せない。


だが、そこが「ある」もので満ち溢れているなら、

「ない」ものを探す必要はあるだろうか。


「ない」という狂った考えが、私たちに欠乏を教え、

どこ?どこ?どこにいる?青い鳥は?

と、探し続けさせてきた。


考えだけだったんだ。。。!

と、気づいた時、

それをゲットする必要が消える。

欠乏などしていないことに安堵する。


「人は心に思う通りに知覚する」



心が変わる瞬間は、現象が変わる喜びの比ではない。

一瞬で解放される。


一旦それを味わい始めると、

かっぱえびせんのようにやめられない止まらないになり、

それにしか興味がなくなる。


心の比重がどんどん大きくなってくる。



コースの目的は、心を変えること。


心がこれまでの考えとは全く反対の、180度向きを変えた時、

そこに平安が両手を広げて待っている。


「おかえり〜」


なんだ。そこにいたじゃん。

見てる方向間違ってただけじゃん。


形などどちらでもよくなる。




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