2021年6月8日火曜日

道で人とすれ違う

 


久しぶりにテレビのスイッチをつけた。

7時のニュースを見たら、恐れでいっぱいだった。


トップニュースはコロナであり、次のニュースもコロナであり、ついで次もコロナ関連であり、そしてコロナで。。。


何じゃこりゃ。

夕食時にこんなもの見ながらよくご飯が食べられるもんだ。

いや~な気分になり、とてもご飯を食べる気にならなくなり、途中で消した。

とたんに静寂が戻り、穏やかな気分で食事ができた。



「テレビなんか見たらバカになる!」と言われてた頃があった。

あれから何十年たっただろう。

気がついたら、テレビが私たちの生きるお手本になっていた。

「テレビが言うんだから、間違いない!」と。



滅多に見ないからこそ、外から引いてみられることもある。

まるで「恐れなさい、恐れなさい、そしてもっと恐れなさい。」

って言われているように見えた。





道ですれ違っても、山道で人と出会っても、その存在にビクッとする人もいるだろう。

できるだけ接触しないように警戒しながらすれ違う。

挨拶もできない。飛沫が飛ぶから。


目の前の人が敵(コロナ)かもしれない。

いやもしかしたら、私が敵(コロナ)で、人を攻撃(感染)してしまうかもしれない。。。



今までは被害者でいて、加害者は自分の外にいた。

でも今は、自分が加害者なのかもしれないという思いにさいなまれる、そんな時代。


他人も脅威だが、自分さえも脅威なのだ。恐れはますます人と人とを離していく。


こんなに他人を拒絶した時代があったろうか。

コロナは、人と人とを離すことになった。





だがよく考えてみると、人に接触をしないというのは、思いやりの行為。

マスクをするのも、感染しないためでもあるが、人に移さないようにという思いでもある。


一見人を引き離す拒絶のように見えるものも、

もう一つ別の面から見れば、相手に移さないための愛の行為。

互いが思いやる心。


恐れの後ろに愛があった。



高知に帰って、母に会いにいくのも愛の行為。

高知に帰らず、母に会わないのも愛の行為。


行為は真反対なのに、心は同じ思いであることに変わりはない。




同じ行為でもその捉え方によって、幸せにも不幸にも感じる。


道ですれ違う時、すっとよける自分の行為を、

拒絶という恐れで行うのか、

思いやりという愛の想いで行うのか。


この世界の原因は、心。

心が思っている方向に、現象という結果が現れている。


心が愛なのか、恐れなのか。

どっちを向いているかで、その人の幸不幸が決まる。



私は愛の想いを選びたい。


喜びで、人とすれ違いたい。




絵/夏の草(和紙)

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