2020年12月12日土曜日

幸せベタ

 


来月、いつものふじだな珈琲店で、

和紙の小さな作品で展覧会をさせてもらうことになった。


その準備も進み、

穏やかな気持ちで散歩していると、


「あれはあれでよかったんだろうか。。。」

と心配事が持ち上がってきた。


「じゃあ、そうでなかったら、、、、」

と、心はその思いに続いていく。


そこでハッとした。

「ああ、私。幸せ慣れしてないんだ」


さっきまで静かな幸せの中にいた自分が、

ふいに湧いた言葉につられて、気分が落ち込み始める。

浮かんだ言葉は恐れだ。


私は恐れを探している。

さっきまでの幸せを打ち消そうとしていた。



私たちは幸せ上手ではないのだと思う。幸せベタ。


自分は幸せになってはいけないのではないか?

そんな権利はあるのか?

もっと不幸な人がいる。

私が幸せになっている場合ではない。

不幸なままでいなくてはいけない。。。


そんな思いが横たわっていた。






幸せや喜びは、何かをやって、何かを得て、何かを与えて、やってくるものだと思っている。

一瞬それにとても喜びを感じて、ひとしきり味わった後、

「さて。次の幸せは。。?」と探している。


幸せは外からやってくるものだという信念がある。

だからこそ、ただ何もしないでいる時に感じる幸せに、恐れを抱く。
なんとも言えず座りごこちが悪く、

心は恐れる材料を探そうとしてしまう。。。





私たちの本質は、本当は幸せなのではないだろうか。

存在自体が幸せ。大いなる幸せの塊。


その大前提を隠すために、自我が大騒ぎしているのだとしたら。

本質をすっかり忘れて、幸せ感に慣れてない私たちが探そうとする恐れに自我はつけこむ。

「これは問題だ」「もっと他にやるべきことがある!」


自我は、私たちが幸せの塊であることに気づかれてはまずいのだ。

大騒ぎして、

「こっちを見ろ!こっちこっち!」

手を振って、そっちに向かせようとしてる。


それは自我という存在自体が実在しないものだから。

常に自我の考えを信じてもらっていないと、自我が消えてしまうから。



私たちに恐れを植え付ける自我こそが、一番恐れている。


巨大な私たちがスヤスヤと寝ている耳元で、

消えかかりそうな小さな闇が、


「お前は罪人だ。罪悪感を感じろ。恐れろ!」

と、必死に大声で訴えている姿。。。w



そんなイメージを微笑ましく思い浮かべながら、

私はこれから幸せ上手になろうと思った。




年明け1月に開く予定の展覧会のご報告、

追っていたします。


高尾に来られることがありましたら。





絵:「秋の音」/和紙


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