2020年12月11日金曜日

漬物石

 


どうしていいかわからない時がある。

どっちに決めた方がいいかわからない時がある。


こんな時私は立ち止まる。


「私には、何にもわかりません」


と、そっと宣言する。





それまでは、

どうしていいかわからない自分はいけないのだと思い、必死で策を練った。

どっちに決めた方がいいかわからない自分は能力がないとして、

どっちが一番正しいか必死で考えた。



その元になっている考えは

「私は自分で決めることができる」

という法則であり、

自分で決められる「はずだ」

という暗黙のプレッシャーであった。



それはこの世は能力主義で、能力がある方が正しく、

能力がないものは間違っているという重たい漬物石が、私の上に乗っかっていたからだ。


私はその漬物石であらゆる水分を放出してしまい、完全にひしゃげてしまった。




そこで初めて私は自分の上にある重たい石に気がついた。

その石の表面には、「無能」とか「罪悪感」とか「恐怖」とか「罪」という文字が書かれてあった。


その漬物石は、自我の教えでできていた。


こうしないといけない、ああでなければいけない。世の中はこういうものだ。お前は小さく弱い生き物だ。この世で生きていくためには勝ち抜いていかなければいけない、云々。

私を怯えさせ、小さい体をますます小さくさせる教えでできていた。


私はこの先生に長い間教わってきた。

この先生を信じて疑わなかったけど、その先生のおかげでペシャンコになった。




そんな時、他にもう一人の先生がいることに気づいた。

その先生は、違うところからこの世界を見ている。

その先生は、漬物石など存在しないと教えてくれた。

あなたは小さきものではない、無限の力を持っていると。



長いこと漬物石があると信じ続けていたので、いきなりそれがないと言われても戸惑う。

けれどもすこしづつ、その石が自分に何を仕掛けていたのかを知り始めるうちに、

石はだんだん軽くなっていった。

それと同時に、私に水分が戻ってきた。


ぎゅっと詰まって重たかった石は、密度が薄くなって穴が開き始め、

空気が入り、軽石になっていった。





「私には何もわかりません」というとき、

私の心は軽くなる。


知っていなければならない、わかっていなければならない。

この言葉がいかに私に重荷/重石を与えていたことか。




本当は何も知らないんだ。

何もわかっていないんだ。

そう思った時、私の上には何も乗っかっていない。


そうしてこの世界で通用しているかに見える自我の先生を放棄し、

別の視点にいる聖霊を先生に招き入れる。




この先生は教えを押し付けない。

何も言わない。ただ一緒に見てくれる。

一緒に静かに見ている間に、今までと違う視点がやってくる。



最初は何かのメッセージとしていろんなことを与えてくれていた。

今はただその先生といるだけで安堵する。

それだけでこの世界が違って見えてくる。

勝手にことが進んでいく。

これで良かったのだと、幸せな気持ちの中を進める。




現れてくる現象にフォーカスし続けていたが、それは心の結果。

私の思いが目の前に現れていた。


不快を感じた時や不安を感じた時、何かをしなければと行動に出そうになる。

その時私はその衝動をやめる。


そしてそっとつぶやく。

「私は何もわかっていないのだ」と。


正そうとすることもなく、判断することもなく、

私には何もわからないとして預ける。

もう一人の先生とともにこれを見る。


その時、私の知らないところで何かが動いている。

パタパタと見えない何かが動き、

そして心の中に変化が起こる。



ある時は考えが浮かび、

ある時はただ心が落ち着く。


どちらにしろ、ギュッと凝縮する考えではなく、

さあ~っと、目の前が広がる感覚になる。



穏やかさがもどり、そこで私は一歩踏み出す。









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