今までやったことないことをやってみよう~と、地域の文化祭に参加した。
初めての実行委員、初めての展示。ついでに友達も引っ張り込んで一緒に展示した。
まったく知らないおじさんおばさんに囲まれて一人ちょこんと参加。
今までだったら、「なんでこの私がこんなへぼいところでやらなきゃいけないわけ?」
とかプライドが傷ついただろう。しかし今はホクホクしながらそこにいる。
いったい何十年使ったんだ?と思うようなボロボロの大きな板にスチールを組み合わせて、体育館の中で展示用の壁を作る。その上に黒いシワシワの布をかけて完成。絵は針金を曲げた手作りのフックに引っ掛ける。徹底した手作り感がなんかそそる(笑)。
「そのキャプションはなんでそこ?ここでしょ!まっすぐつけてよ」
とか初めて会ったオヤジにズケズケ言う。
昔だったら後で後悔した。
あんなこと言うんじゃなかった。今頃あの人は、、、とかぐちぐち考えてた。
それがまったく出てこない。
あー楽しかったって終わる。
まったく知らない人たちに囲まれて、その空間にただいる。
みんな私を優しく見守ってくれている。
駐車場のおじさん、受付のおじさん、食堂のおばさん、屋台のお姉さん、バッタリ会った知り合いのオヤジ。みんな優しい。
そうして気がついてくる。
私が私に対して優しくなってきたんだと。
「自分に優しく」
言葉は簡単に言うことができる。しかしそこに至るまでに長い道のりがあった。
人はそういう言葉を知ると、即座に出てくる思いは、
「自分に優しくしなきゃ」だ。
それは無理な注文だ。
「自己肯定感が低い」
そうか、私は自己肯定感が低いから高くしよう!
これも無理だ。
自分に厳しいのも自分の自己肯定感が低いのも理由があってのことだ。
言葉を唱えてなれるもんじゃない。
これ、学校の教育がそうさせちゃったんだろうか。知識と記憶力がくっついてしまっている。
言葉さえ知ってりゃいい的な安易な考え。
だが本当に知るとは、体験を通して知っていくことなのだ。
自分に優しくなれるとは、まず人からの優しさを受け取れる力量がないといけない。
人の優しさを受け取るというのは、実は勇気がいるのだ。
人の愛がやってくると、私たちは後ろに下がってしまう。
「いやいや。。。私はそんなもの受け取れるほどの人間じゃあございません。。。。」
ズリズリズリ。。。
ある時、それを自動反応のようにやっている自分に気がついた。
それは一見謙虚という美しい言葉に置き換えられて、ケムに巻かれてしまう。
そうやって私たちは人の愛を受け取るまいとしているのだ。
それは友人や人を通して、神の愛が運ばれてきたのを
めっそうもございませんと言いながらポイする行為だった。
それこそが自我が推奨する行為。
「でかしたぞ、つくし。よくやった!」と。
それに気がついた時、私はその態度を180度変えた。
「ありがとう!」と両手を広げて思いっきり受け取ることにした。
そして愛をくれた兄弟たちに感謝をした。
愛は自分にないからもらうものではなく、
愛を与えることで、自分がすでに持っている愛を思い出すのだそうだ。
私たちはとんでもない愛を持っている。
それは人に与えれば与えるほど、さらに持っていることを思い出して溢れてくるのだ。
そうやって愛に免疫がついてくると(笑)、
愛の状態でいることが平気になってくる。
それまでは常に問題や罪を探すことに躍起になっていた心の癖が、
愛の温泉の中でふわ~っといられるようになってくる。
失敗しても笑えるようになってくる。
今日はどんな楽しいことが待っているんだろう?
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