母の四十九日と初盆の法要のため、高知に帰ってきた。
空港に迎えにきてくれたいとこに「どお?落ち着いた?」と聞かれた。
「ん?何が?」と言って、ハッとする。
ああ、そうか。わたしは喪に服してなきゃいかん時期なのかと思い出した(笑)。
四十九日までは死者はここらへんでウロウロし、天に帰っていく。
そして初盆にはキュウリに乗って帰ってきて、ナスに乗って帰って行く。
母は私とひとつになってわたしの中にある。
お通夜の時そう感じていらい、あんなに強烈に存在感のあった彼女は、
私の中でどんどん薄くなっていく。
空港から母がいた施設に最後の挨拶に行った時、遺品を手渡された。
ああ、かつてこういう人が居たんだなあと思い出された。
しかしその遺品を持って帰りたいとは思わなかった。
遺品というものは、今は亡き愛しい人々を思い出すためにあるのかもしれない。
今の私にはそれを見て彼女を「外」に感じたいとは思わなくなっていた。
法要のためのお花やお供物を用意した後、母より二つ年上の叔母の面会に行く。
叔母はホスピスで寝たきりになっていた。
声をかけるとしばらくしてうっすら目を開けた。
「おばちゃん、つくしやで。覚えちゅう?」
彼女は首を横に振った。
いとこと顔を合わせた。
「覚えちょらんって(笑)」
それにもめげず昔話をした。
彼女は大阪の心斎橋でオートクチュールの店を持っていた。
私は京都時代、よく彼女の店に行き、大阪の美味しいものを一緒に食べ歩いた。
彼女の店にはイタリアやイギリスの高級な生地が壁一面陳列されていて、
店の中央のテーブルにはVOGUEの雑誌。
大阪の着道楽のお客さんたちはそれを参考に彼女に注文する。
彼女のデザインセンス、そして仕立ての技術は天才的だった。
そんな彼女の姿や西洋の生地に直接触れてきた私は幸運だった。
「おばちゃんが作った服は最高やで。今でも着ゆうで。
かーちゃんもそれしか着てなかったで」
彼女はだんだん元気になってきた。頭は全くボケていなかった。
体を揺すって、声を出すほどになっていた。
いとこは「おばちゃん、話せるがや。ここしばらく声聞いたことなかったで」と驚いていた。
面会時間は15分。時間はあっという間に過ぎた。
それからのち、私は幸せの中にいた。
叔母と過ごしたあの瞬間がとても美しく、思い出すたび、喜びが溢れる。
彼女はとても愛おしく神聖に見えた。
浜沿いにある古い病室はみすぼらしいはずなのに、白く輝いていた。
彼女と過ごしたあの風景は、光の中で白くなって消えようとしていた。
翌日の朝、法要が始まった。
7月の末の高知は猛烈に暑い。しかもお寺にはクーラーがなかった。
扇風機を2台フル回転させて聞く読経。
お寺の周りではクマゼミの大合唱。
しかし背中から涼しい風が時折吹いてきて心地よかった。
若いお坊さんの読経はリズミカルで、
いい声をしたラッパーのラップを聴いているようだった。
心の中でひとり踊る。私はここでもとても幸せな時間を過ごす。
その後浜沿いにある母のお墓まいり。
直射日光が容赦なく照りつけるが、私はこのお墓が好きだ。
開け放たれていて太平洋をすぐ目の前に見る。
今は跡形もない母の実家とお寺はすぐ近所にあった。
「浜まで人の土地を踏まんでいけた」と祖母が言っていたのは、その墓までのことだったのだろう。それほど広大な土地を持っていたようだ。今は見る影もないが。
そんな土地を車で移動。人が住んでいるかいないのかわからないような家々、ほとんど寂れている。
しかし私の目にはそれが美しく見えた。
叔母との面会の時と同じように風景がだんだん薄くなっていき、白い光の中に消えていく。
幸せな感覚と共に。
人は形を求める。
四十九日の形、初盆の形、お墓まいりの形、面会の形、、、。
これをやったら、次はこれ。それが終わったら次はこれ。
お通夜、告別式、四十九日、初盆、一周忌、三回忌、七回忌と続く。
それをこなすことがご先祖様を大事にしていることだとする。
その形をやりこなすことが幸福の形だと。
法事を終わらせてホッとして、ほんの少し開放感を味わって、次のハードル(法事)に臨む。
そういう「形」の中で幸福を求めることが、
逆に本来の幸福を忘れているように思えた。
形は人を不幸にもする。
法要はこういう形でなければいけない、
お布施はこれだけの金額でなければいけない、お供物はこれとこれ、、、、。
あれ。キリスト教に四十九日はあるんだっけ?
私には法事がおままごとのように見えた。
そんなものを通さなくても、
人はその兄弟と心を分かち合うことがいつでもできる。
形を忘れ、心だけになると、人は幸せになる。
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