2024年5月11日土曜日

ギャラリートークの夜に

 

「きぶし」/和紙、水彩

10日間の展覧会が終わった。

これまで個展を開いてきた中で、これまでにない大変多くの人々にご来場いただいた。

お忙しい中、わざわざ足を運んでくださった方々に、心から感謝いたします。



私にとって展覧会は一人リトリート。

非日常の空間に入って、友達や全く知らない人々と毎日出会う。


私の絵を見に来てくれている人々と挨拶し会話しながら、

自分の中の心がどう反応しているのかをつぶさに見る。

山から降りて、帰りに寄ってくださった人、これから山に登る人、

和菓子屋さんに貼ってあったチラシを見てきてくださった方々などなど、

ギャラリーにやってくる人々とは違う人との対話。


「それで、この中であなたの絵はどれなの?」

「どの先生に教わっているの?」

「何かお手本の絵でもあるの?」

「たいそうなご趣味をお持ちで」


例えば絵は習うもの、お教室に通うものという観点から見れば、上のような言葉になる。

しかしこの絵が銀座のギャラリーに飾られていたなら、上のような感想は出なかっただろう。

この庭園ならではの人々との出会い。彼らの言葉にかすかに反応する自分を見逃さない。


しかしそれよりもはるかに、絵を見て感動してくれている人々の姿に、

私はとてつもない愛をもらい続けていた。



期間中ギャラリートークをした。

これは私にとって人の前で絵について話す最大の一人リトリートだ。

たくさんの方々が聴きに来てくださった。

改めて絵について話してみると、大した話は出てこない(笑)。

絵を言葉にすることの難しさを感じた。

日頃私が感じている植物との対話、和紙との触れ合い、散歩道で出会うふとした風景の驚きなど、

それを伝えられないもどかしさがあったが、楽しい時間を過ごさせてもらった。

その時の動画はこちら





その夜、布団の中で意識が起き、不思議な体験をした。


ギャラリートークにきてくださった人々が心に現れ、

ある一人の人物がはっきりと思い出された。

その人は私を真正面から見ていた。

その人のことを、ああ、私、この人好きだなあ~と思っていると、

すーっと私の中に入ってくるのだ。


最初は抵抗したが、入ってくるに任せた。

それをきっかけに次々と人々が私の中に入ってくる。

なんとも言えぬ心地よさに身を任せていると、

そのうちコップやテーブルなど、まわりの物質までもが私の中に入ってきた。


不思議なことに入ってくると同時に、私のカラダがだんだん消えていくのだ。

理屈で考えると、入ってくるとたまってくるように思うのだが、

入れば入るほど、私が消えて透明になってくるのだ。


それはまるで「私が外に出したもの」を回収しているかのようだった。

ああ、私はこうやって自分が投影したものをうちに戻しているんだと感じた。


外に出せば出すほど、(投影すればするほど)、

自分という体が物質感を帯び、自分と他人がくっきりと分かれ、

内に回収すればするほど(受け入れれば受け入れるほど)、

個という独立した自分という感覚は消えてなくなるのだ。


遠い昔にかすかに記憶していた、カラダである私はいなくて、

本質である「私」がいることを思い出していた。



ノンデュアリティで言われる「私はいない」とは、

まさにカラダである私はいないことであるし、

マハラジの言う「私は在る」とは、

本質である「私」しかいないと言うことなのだろう。


これらの言葉は矛盾しない。

ここにいるかに見える私とは、かりそめの私なのだ。

そのかりそめの私はいない。


存在するのはこの肉体を持った私ではなく、

真に実在する私であった。


最初は文字で知識として知り、

そしてそれは少しづつ、体験を通して真実だと教えられる。








2 件のコメント:

  1. つくしさんの今回の展覧会に何度か行きました。
    つくしさんの作品を見ていると心が安らぎ、単純に好きだなぁと見とれていました。
    そして、つくしさんとつくしさんの作品に出会えて、私の心が喜んでいました!
    今回のブログを読んで、さらにつくしさんの感受性に私は惹かれていたのだなあと、分かりました。

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  2. 匿名さん、

    なんども展覧会に足を運んでくれてありがとう。
    絵や人に触れて、心が安らぐっていうのは、
    匿名さんの感受性も開かれているってことです。
    これからますますご自分を開いていってください。
    コメントをありがとうございます。

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