私が私を責めたくなる時、
私の中に罪を見ている。
そして誰かを責めたくなる時、
じつはそれも、私の中に罪を見ている。
自分の中に罪があると信じているから、
苦しくて、人にそれを投げつけるのだから。
自我は、罪を誰かのものにしておきたい。自分か。兄弟か。
だが真実は、罪を見れば、どちらにも罪があると言っているのだ。
そして罪がない時、誰にも罪はない。
聖霊とともに、私に罪がないことを見れば、兄弟にも罪はない。
私にないことを見ようと、兄弟にないことを見ようと、それは同じだ。
罪など、存在していないのだから。
そのことをはっきりと覚えておこう。
罪がないというなら、どちらにもない。→聖霊→真実
罪があるというなら、どちらにもある。→自我→嘘
絵:どくだみ
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