2023年1月22日日曜日

想像してみる


 

肉体という分離の中にいると、相手の心がわからない。

些細な言葉の違いですれ違いが起こる。


その思いをひとつの心に持っていく。

そこには対立するものがいない。


お互いがお互いの心がすけて見える。


そこにいると、どっちも悪くないことが見える。

どっちもその思いの中で正しいと思うことを考えている。


誰も悪くない。。。

そう思った時、自分の罪も兄弟の罪も消えていく。





想像してみる。


もし体がなくて、兄弟と向かい合ったら、何が起こるだろう?

言葉はどうなるのだろう?


そう考えると、言葉はほとんど形のことを話していることに気がつく。

肉体というものがあるという前提で言葉があった。


肉体がないとき、怒りはどうして起こるだろう?


。。。。


考えてみると、怒るきっかけがない。


怒るのは、自分を傷つけられた!という思いからくる。

これ、肉体があるという前提からきている。


心が傷ついたっていう思いも、その前提に「私は肉体だ」という思いから、

心まで傷つくことになる。

ということは、肉体がないと、怒ることができない。


悲しみは?

悲しみもまた、一人ぼっちという思いからくる。

これも肉体ありきだ。


恐れは?

そう、これも肉体を破壊されるという恐れからくる。

全ては肉体ありきから来る苦しみだ。


そしてこの肉体がないという前提で、兄弟と向き合ったなら、、、。


つまり形のない考えとは何か。

形がともなわない言葉とは何か?

そんなものあるのか?

あっても限られたものではないだろうか。


そんなことを考えていた矢先、この言葉と出会う。


『彼らの言語に言葉はない。彼らの知識は直に理解され、完全に共有され、完全に一なるものである』

ワークブック、レッスン129、4段落目


彼らの言語に言葉はない。

言語に言葉はいらないのだ。

直に理解され、完全に共有され、、、。

つまりコミュニケーションに言葉はいらないと。。。


言葉とはこの分離の世界のものだ。

バベルの塔の物語を思い出した。



この世界に私の望むものはない。

そこから先に進むとき、

言葉はまったく役に立たなくなり、

言葉では語られなくても、確実に理解される沈黙に入っていく。


この世界を超えたところに、私の望む世界がある。



絵:MF新書表紙イラスト




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