2022年9月26日月曜日

檻の外から叫ぶ

 


9月は、展示即売会、お里帰り、町内会の長老の集まりの主催などの行事が重なった。


忙しい日々の中、ある現象が私の中で起こっていた。


行事が始まる前、きまって具合が悪くなるのだ。

もう、、ダメだ。。。こんな状態でできない。。。

しかし始まると、そんな体の不調はどこかにふき飛んでしまう。

終わった朝はケロッと起きる。


前からこの変な癖を知ってはいたが、今回は行事続き。

必ずやってくる体の不調。

そしてなかったかのように消える、この変なものは一体なんなんだ!

(単なるプレッシャーだろ)


そして、ひょっとしてこれではないか、、?

と思うフシが。。。




「自分は肉体である説」


体の不調って、ものすごく体を意識する。

自分は体だ!と。

自分は個別で独立してて、

あの人ともこの人とも分かれている一人の人間だ。


これから人と出会うのだと思った瞬間、緊張が走る。

個別と個別が出会う瞬間。恐ろしい。実に恐ろしい。


その思いをさらに強調してくれるのが、この体の不調だ。

私は一個の人間で、これから別の個体と出会う!恐ろしい!

うわ~~もうダメだ!最悪だ!自分は死んでしまう~~!


ほとんど頭がおかしい人。

なぜそんなことをやっているのか。




では次の説。


「自分は罪人である説」


自分はとんでもない罪を背負って生まれてきているから、

その罪を償うために、自分に罰を与えないといけない。

その罰はなんでもいい。

とにかく辛い思い、恐ろしい思いをたっぷり味わうことによって、

その大いなる罪を償わなければいけないのだ!


これです。


この罪の思いが根底にあるので、

自分を肉体だと思わせ、

その肉体を懲らしめるということをやっている。


肉体にまつわる苦しみはなんでもある。

病気、死、老い。


それだけじゃない。

お金、名誉、人間関係、恋愛、家、仕事、成功、、、、。

およそこの世界にあるほとんどのことは、

自分が肉体であるという縛りからの苦しみなのだ。



実は肉体自体が檻。

その中に閉じ込められているという思いが、罪の象徴。



、、、なのではあるが、

本当は私たちは檻の外にいる。


檻の鉄格子を外から掴み、檻の中の出来事を最悪の気分で眺め、

「ここから出してくれええ~~~!」と叫んでいるのだ。


いや。あなたは今も檻の外にいますから。



本当は檻の外にいながら、自分は罪人だと信じているから、

檻の中にいると勘違いをしている。


罪人だと信じているから、

罰を与えるために、自分は肉体(檻)だと信じ込ませるために調子が悪くなった気分になる。

それで罰を与え、その思いで心を苦しめさせることによって

ちょっとでも罪を償えると信じてやまない。


自分はその罪で満載の檻の外にいる。

この今見えている世界の中にいるのではなく、外にいるのだ。


あなたに罪など一度も起こったことはない。

当然罰を与える必要もない。

それを思い出すこと。

それが垂直の知覚。



とか書きながら。


行事が重なって締め切り過ぎた仕事がまだ手元に残る。


焦りでなかなか進まず、

ウンウン唸って頭をかきむしる。


「この檻から私を出してくれええ~~~~っ!」


と、檻の外から鉄格子を握りしめて叫ぶ私であった。





ちゃんちゃん。




絵:「猫じゃらし」





2 件のコメント:

  1. いつもピンポイントでお世話になっております。
    「垂直な知覚」
    これまた悩ませる言葉が出てきましたね^^;

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  2. 梶くん、

    垂直の知覚とは、
    まずその反対の「水平の知覚」で自分たちが見ているという自覚が必要になります。

    水平の知覚とは、この世界すべて。
    時間、空間、自分、他人、五感、感覚、恐れ、罪、罪悪感、分離、破壊、死、、、、。
    それは横軸になります。
    今知っているすべての知覚です。

    それとは全く違う視点があります。
    水平の知覚の一切を縦軸から眺める。垂直の意識。
    コースではそれを「戦場を上から眺める」という比喩も使います。

    水平の世界は戦場です。梶くんがすでに味わってきた世界です。

    垂直の知覚とは、平安、静けさ、喜び、愛、光、一つ、形など全くない、聖霊が見る世界です。



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