まだイラストレーター駆け出しのころ、
ある有名なグラフィックデザイナーにあった。
その時の彼の言葉がずっと私の心に残っていて、
それが後々にまで影響を及ぼし続けた。
「僕らの仕事は、しょせん絵に描いた餅」
確かに、絵に描いた餅は食えない。
私はデザイナーに憧れて力及ばず、イラストレーターになった矢先のこと。
その言葉はこう私に告げていた。
「イラストレーターもデザイナーも架空の儚い仕事」
鼻っぱしをぽきっとおられた。
なんの意味もない架空の仕事を私はやり続けるのか?
心はなんとしてでも地に足がついたことをやりたいと願っていた。
そしてニューヨークのブックオフで見つけた、
福岡正信さんの『自然に還る』の本と出会い。
「これだ!」と思った。
フィラデルフィアにあるオーガニックの農園を訪ねたこともあった。
アメリカではついに土に触れることはなかったが、
そのせめてもの願いは、陶芸作りで少し癒された。
そして日本に帰って約200坪の畑を手にした。
「これで私は架空の仕事から脱出できる。。!」
そう真剣に考えていた。
デザイナーとしての仕事を離れ、
自然を相手にする、もっと地に足をつけた生き方をする何人かの人たちを知っている。
彼らもまたどこか私と同じような空虚感を感じたのかもしれない。
私は架空ではない、絶対的な答えがあるはずだと信じて、大地に触れていった。
しかしその思いはことごとく崩れていく。
人間が自然に関与するということは、その自然自体を破壊していく。
その間の折り合いというものは存在しないようにみえた。
これだけ欲しいと計画立てることを、自然は軽々と裏切っていく。
そしてまた生き物たちとの間でも縄張り争いをすることになった。
網を張り、罠を仕掛け、痛い思いをさせてまでも。
その間の、私の罪悪感という心のせめぎあいの葛藤はますます激しくなった。
ここが最後じゃないのか?
これこそ足が地に着いた仕事なのに、どこが美しいのだ?
単に私は野菜の奪い合いを猿たちとやっているだけではないか。
先日うちに来た、デザイナーをやめて養蜂家になった彼が見せた落ち込みが、
あの時の私の悲しみと重なった。
架空の仕事から脱出できる、最後に見出せる答えだと信じてきたのに、
結局、私はそこにあの言葉の答えは見出せなかった。
この世界にいくら取り組んでも、
それはコロコロと常に変化し、
昨日答えだったものは、今日はもうすでにそれが答えではなくなっている。
結果が全てだと追いかけ、結果が一瞬良くても、
またもっと先にある次の目標に向かって走り続けさせられる。
そして私は気づいた。
この世界自体が「絵に描いた餅」なのだ。
それが色即是空の意味。
それが奇跡のコースのワークブックレッスン1の言葉、
「この部屋の中に(この路上に、この窓の外に、この場所に)
見えているものには、なんの意味もない」のこと。
そのことに気づくために、私はここにいる。
その「絵に描いた餅」の向こうの、
忘れてきた不変のものを思い出すために、
この世界にいる。
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