2022年6月14日火曜日

悟りと幸せ


 

「悟り」という言葉に私は囚われていたのかもしれない。


この言葉はどこか世捨て人的だ。


何かの犠牲によって得られる境地。

出家してこそ得られるもの、

すべてを捨て去ったのちにやってくる境地。。。


それは、この世界は知れば知るほど矛盾に満ちていて、

残酷で嘆かわしく、

この世界のどこにも答えが見つけられないとわかったからこそ、

そこに向かっていくものなのだろう。



コースはどこか犠牲をともなう悟りというものとは関係がない。


人は悟らなければ幸せになれないわけではなかった。


いや、もともと悟ることによって幸せは得られたのであろうか。

私は悟ったことがないのでそこのところはわからない。


だけど幸せになれることを学んでいる。

劇的な体験も自慢できる体験も何もないけれど、確実に幸せになれる。


「私はいない」の境地にならなければ幸せになれないのでも、

個の自分が消えなければ、幸せになれないわけでもない。


私というものが、自我に覆われていることに気付き、

それを取り除いていくことでだんだん見えてくる本来の自分。


だんだんと罪悪感が消えていくほどに、

自我の黒い雲が徐々に晴れ始め、

その向こうの光が見え始める。


この世界は幻想だと自分に言い聞かせていても、

ちっとも実感が伴わないが、

自分の中にある罪悪感がだんだん消えていくのと比例して、

この世界の実在感が消え始める。


そこで初めて、

「そうだった。そうだった。

この世界は罪悪感によって作り上げられた世界だった。

そりゃ、その罪悪感が消えていくほどに、

この世界が消えていくのはあたりまえだよな」と納得する。




「この世界は幻想だ」と気づいて、

世を捨てて悟りを開いていく道もあるだろう。


コースは自分の中に隠し持っている罪悪感を捨てていくほどに、

この世界はやはり本当に幻想なのだと実感していく道だった。


心の訓練をしながら徐々に罪悪感が消え始めると、

どんどん幸せな瞬間が増えていく。


この世界の幸せは一瞬だ。

ケーキを食べ終わったら終わる。

オリンピックで一等賞を取ってもその頂点は終わる。

仕事で成功してもやがて終わる。


幸せとは、物理的に何かを得て得られる幸せが本当の幸せではなかった。

それは本来の幸せの代替えでしかなかったのだった。


ただここにいることに、開放的な幸せが果てしなく広がっていく。

その口から笑みがこぼれる。


そこに「私」はいる。


けれどもそれは自我に覆われた私ではなく、

本来の私がそこにいる。






絵:MF新書表紙イラスト




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