2022年5月1日日曜日

クライアントという神

 


クライアントに気に入られることは大事だ。

クライアントに気に入られてこそ、自分の価値を認められる。


私はこうやって、必死でクライアントに気に入られるように頑張ってきた。

(つもり。気に入られてきたかどーかは不明だ)



この関係は密かに緊張感を生む。

力があるものに、力のないものがご機嫌伺いをする構造になっている。

地主に百姓が仕事をもらう、お金をもらうような構図。


「頑張ってこんな絵を描きました!」と、お見せしても

「ん。気に入らない。却下。君、退場!」

と言われる立場。


自分の価値が、そのクライアント次第で上がったり下がったりする。


つまり私にとってクライアントとは、

「ここにいていーの?私」とお伺いを立て、

「よし!いていい!」とか「だめ!退場!」

と言われる裁判官に、いや、神にしていたのだ!


神に否定されないために、そりゃー頑張るよね、私。

生きるか死ぬか。路頭に迷うか否か。の対決だもんね。


ん?でも待てよ。

「だめ、退場!」と言われても、死んでないぞ。

路頭にも迷ってないぞ。




そこであらためてクライアント神を見る。


そもそも裁く神ってなんなんよ。

本物の神は裁かない。愛でしかない。

ってことはこれ偽物の神じゃーん。

私が作り上げた自我の神。



自我の神は裁きまくる。

人様の道を外れたら、裁く。

人様の道を外れなくても裁く。

有罪判決を下す!

(実はそれしかしない。有罪にしか興味がない)



私はクライアントさんを自我の神に仕立てていたんだ。

だから

「お代官さま~~~。

後生でごぜえますだ~~~。

おらを許しておくんなませ~~~~」

と、すがりついて、自分の価値を認めてもらおうと必死だったんだ。


私は自分を裁きたがっていた。

それは自分に罪があると信じていたから。


でもそれこそが自我の罠。

こうやって対立するものを与える。


力あるもの、ないもの、

お金があるもの、ないもの、

ゲットすること、されること、

価値があるもの、ないもの、。。。


二極の対立を常に行うように仕向けて、

ぐるぐるとその関係が回り続けるように仕組んでいる。

タオの陰陽の図のように。

銀河系の二極の回転のように。

DNAの螺旋のように。


この世界が存在すると思わせるために。




クライアントは、自我の神ではなく、私自身だった。


私が私をさばいている。

その理由は、私には罪があるから、

罰を与えるために、もう一人の裁く神/私を作り、

時と場所に応じてアメとムチを使い続けていたんだ。


だがそれが自我の仕組んだことだったと明確になってきた今、

この考えを採用することは、もう無意味だ。



クライアントは私だった。


それは自我の私ではなく、本当の私。神の子。

神の子が神の子は裁かない。


私とクライアントは同じ心。

分れていると思っていたから、裁く裁かれるがある。


同じであるとき、そこにさばきはあるか?

それは愛であるだけなのだ。


自我を選べば、二つに分かれ、裁き裁かれる。


正しい心、神の子、真の自己を選ぶ時、


二つは一つになり、そこに光が思い出される。

喜びが現れてくる。






絵:ミステリー表紙イラスト




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