誰かと話をしている時、
相手が、こう考えているのではないか、
きっとこう反応するだろう、、、
と考えていている自分に気がつく。
相手の反応を推測しているのだ。
自分が相手の反応に判断や解釈を加えて、
判断メガネをかけてみている自分に気がつく。
だいたい判断というものは、悪いようにしか判断しない。
ということは、その悪い反応を見ることになる。
相手を判断して、きっとこう来るだろうと推測し、
「ほーらやっぱり!私って正しかったんだあ~」
と、密かにほくそ笑む。
事実は、私はその「正しさ」を見たがっていただけだったのだ。
その正しさとは、自分と誰かは分離しているという証明。
そんな「正しい分離」を証明しまくっていたのだった。
人は分離してて当然!と。
これ、じぇんじぇん楽しくなかった。
「しょせんこの世はこんなもの。」
と、ワケ知り顔になり、
せいぜいニヤリと笑うだけだった。
こういう経験を何十年もやってきたので、もういいや。
違う見方をするべ。
話を聞きながら、判断を停止する。
目の前の存在の神聖さを見る。
時には白いユリを敬愛を込めてイメージで渡す。
それでおしまい。
相手の反応なんか確認することない。
だけど判断しないでいると、
気がついたらそこに苦悩は見当たらなかった。
分離のない楽しさが広がっているのだった。
きっと判断するってさ。
相手を縛ることになっちゃうんだろうな。
ちっちゃい存在にしてしまうんだろうな。
そしてそれは自分さえもちっちゃくする。
だって私たちは一つなんだもん。
絵:MF新書表紙イラスト
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