「我々はただその旅路を、終わった時点から振り返って見て、
もう一度その旅をしていると想像し、
過ぎ去ったことを心の中で思い巡らしているに過ぎない」
と言われたらどんな気分になるか。
はっきりいって憤慨ものである。
あなたはそのすでに終わった旅路を台本通りに動く。
一ミリの違いもなく、すでに終わった映画を再生するがごとく。
つまり自由意志はこれっぽっちもないというのである。
たとえ自由意志があるように見えても、その範囲はすでに台本通り。
すべては起こるがままに起こるというのだ。
コースのこの言葉に私はかなり抵抗した。
自由意志がないだって!?すでに私の人生は決まっている?
じゃああの必死になって営業してゲットしたニューヨークのレップも、
それ以降仕事がガンガン入ってきたこともシナリオ通りだったと言うのか!
つまり「私のお手柄」ではなかったと。。。
小さい時から、自分で頑張ってなんぼと教わってきた。
頑張れば結果が出ると。だから「自分が」やればできると。
それがここにきて、そうでもないようだと思えるようになってきたのは、
どんどんと「やればできる」が「やってもできない」になり、
そのうち暖簾に腕押し状態になり、ふぬけになってきたからだ。
いわば、大いなる挫折感?
その大いなる挫折感は、私に別の力(視点)を与え始めたようだ。
何をやっても結果が出ず、何をどうしていいかわからなくなった時、
自分がどうにかしてやれることではないのではないかという考えに至ったのだった。
起こってくる出来事に対して抵抗するのは、「こうあるべき」という信念があるからだ。
こうあるべきという心の底には、そうならないことはいけないことという罪悪感がある。
それがその出来事を変えてしまいたい!という衝動になる。
この世界の行動の動機のほとんどが隠された罪悪感からくる。
その反対の無罪性を知ることは、立ち上がってくる出来事に何の判断も下さなくなる。
罪の意識が隠れていると、無意識にジャッジをするが、
そこに罪の意識がなければ、そのまま受け入れることができる。
だから私はこれまでシナリオ通りという言葉に抵抗していたのだ。
でも罪がないということがだんだんわかってくると、出来事に対して思い煩うことがなくなっていく。ああなって、こうなって、人に迷惑をかけて、とんでもないことになって。。。という最悪のストーリー展開でさえも判断しなくなる。
もうすでに起こっているのであるなら変えようがない。
自分でどうにか何かを変えようとさえ思わなくなる。
そうすると何もする必要がなくなってくる。
非二元で言われる「起こることが起こっているだけ」という言葉も
すでに台本は出来上がっていて、どうにもなりようがないことを知っているのだ。
コースはその「起こることが起こっているだけ」を
「誰と見るか」と問うてくる。
シナリオ通りで自由意志がないとすれば、私たちには何もできないが、たった一つだけできることがある。それは誰と一緒にそれを見るかだ。
その判断だけが私たちに備わっている。
自我とともにそれを見るか。
聖霊とともにそれを見るか。
自我とともに見れば、起こる出来事にジャッジし、うろたえ、混乱の中で全ての出来事はシナリオ通りに起こっていく。
しかし聖霊とともに見るとは、起こる出来事を自我とは真反対の見方で、静けさと平安とともに見る。無罪性の中で見られるその視点はジャッジなどしない。むしろその出来事を、これまで持っていた信念を手放し自由へと解放するチャンスとみなす。赦しによって自我のシナリオを溶解させていく。
私は一度、自我とともに生きた私の人生がどんな最後になるのかを見た瞬間があった。それは惨めな終わり方だった。自我とともに生きるとどのみちこうなる。自我とは破壊への道。
私はそれを見たとき、これ以降聖霊とともにしか生きたくはないと決めた。
たとえすぐに自我的になろうとも、すぐ訂正できるように。
自我の肉眼でしか見れなかったこの世界が、
聖霊の心眼と完全に重なって真実の世界が観れるまで。
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