私もかなりなものだったが、罪悪感や自己嫌悪が強い人は、
形而上学を学び始めると、
自我が、恐れによって攻撃と防御を繰り返している仕組みを知ると、
自分が自我とともに何をしているのかをはっきりと自覚してしまうので、
自分をさらに責めてしまうことになる。
そうなると本末転倒。
自分を裁くことを日常的にやっている人間が、
そうやっている自分をさらに責めることになり、
裁きに裁きが重なって身動きが取れなくなってくる。
そんな時道しるべになるのが、喜びだ。
私たちは喜びは数ある感情の一つだと思っているが、
実はその感情こそが、自我からの脱却を導いてくれる。
喜びはもっと大事にされるべきだ。
誰かが傷つくことによって得られる喜びは論外として、
心に火を灯す何気ない日常での小さな喜びは、大きな喜びの火種になる。
それが一体なんなのかを事細かく教えてくれたハレルヤさんには、本当に感謝している。
罪悪感まみれで苦しんでいたとき、喜びが私たちの本当の姿だということを教えてくれた。
私はよく散歩をする。
木々の間を歩きながら、心がだんだん明るくなってくるのに気がつく。
家の中でぐるぐると考えがまとまらずにいたことが、
歩いているうちに、なんてことないことでくよくよ考えていたんだなと、
別の視点が広がってくる。
木漏れ日など見ているうちに、ますます嬉しくなってしまい、訳もなくその場ではしゃぎたくなってくる。
この頃は家の中でも嬉しさでぴょんぴょん跳ねている。
でも本当はみんなそうなんじゃないだろうか。
嬉しくなったら、子供のようにその場でポンポン跳ねて、
ぐるぐるまわって、
きゃーっ!って叫びたくなっちゃう。
でも「大人しく」という言葉が示すように、
大人とはこうあるべき、こうするべき態度っていうのを教えられて、
その最も大事な、宝石のような感情を押し殺してしまう。
散歩していると、ご近所さんたちや、山から帰ってきた登山者の人たちとよく会う。
すれ違うだけの人も多いが、中には一緒に歩きながら話をすることも。
みんないろんな人生を背負って、この高尾山にやってくる。
そっけない態度をする人もいるけれど、本当は愛を求めている全員素敵な人たちだ。
一人一人が個性的で魅力的。
一瞬すれ違うのも、きっと私と縁のある人たち。
心の中でそっと祝福を送る。時には白い百合の花を贈る。
驚いて喜んでいる姿が目に浮かび、私までほっこりする。
歩けば歩くだけ、喜びが増えていく。
道でぴょんぴょん跳ねているおかしなおばさんがいたら、
喜びを表現している山姥だと思ってください。
絵:「秋山」今は高尾はこんな感じ。
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