コース/A Course In Miraclesを学ぶ仲間がいる。
それはとてもありがたいことなんだけど、コースの言葉使いは独特で、
言葉の解釈の違いで、会話がずれていくことがある。
相手を否定せず咎めず話そうとするが、だんだんちぐはぐになっていく。
例えば、意識、赦し、罪悪感。
よく使われる用語だが、これがとても難しい。
互いの認識の違いで全くちがう話になってしまう。
昨日もそんな仲間と楽しい時間を過ごして帰ってきたが、
夜中になって苦しくなってきた。
言葉にならない言葉の嵐が私を襲う。
聖霊に聞く。
この苦しさは私が間違った方向を選択しているからだ。
私には何もわかりません。
あなたの見方、考え方を教えてください。
布団の中で小さくなって、吹きすさぶ言葉の嵐に乗らず、ただ耐えていた。
夢を見た。
家の外から、私を大声で何度も呼ぶ声がした。
玄関に出てみると、どこかで会ったような会わないような、でもなぜか知っている女性が立っていた。
彼女は満面の笑顔で私に会いに来てくれていた。
その顔は、会えてよかった!あなたが大好き!と、私を全面的に受け入れてくれている顔だ。
たくさんの人がうちに向かって歩いてくる。その背後には大きなトラック。
野外音楽のステージができるトラックのようだった。
その中からもわらわらと次々にやってくる。
そしてその中で知っている顔を見つける。久しぶりに見たその彼の顔はとても清々しかった。
突然家の中からダンナが走り出てきて、彼をがっちり抱き寄せた。
「よくきてくれた!」
二人のダイレクトな愛の交流にまわりも微笑む。
その後ろに私の知り合いがいっぱいいる。お互い知っているはずのないもの通しが、まるで昔からの友達のように一緒に。
大勢の人に囲まれて、私はこの上なく嬉しくなった。
互いに何も語り合わないのに、とても大きな愛の感覚に満ち溢れていた。
「言葉なんていらないのだ。。!」
と感じた時、昨日会った友達のことを思い出した。
ああそうだ。言葉があるから人はそこに違いを見つけ、その違いで戦い合うのだ。。。!!!
昨日のコーヒーショップでのシーンを思い出した。
ある出来事があって、私は彼女にコーヒーをご馳走になったのだが、ある時からどうしようもなく心が幸せでいっぱいになった。楽しくて嬉しくて、大声で叫びたいくらい彼女のことが大好きだと感じていた。
なぜか言葉は出てこず、私はただただニヤニヤしているだけだった。
夢を通して、そのシーンに繋がった。
コースのゴールは心が幸せになることだ。
その幸せになるための学びなのに、互いの言葉の認識の違いでぎくしゃくしている。
これは本末転倒だ。
こんなことは、コースの学習者の間でよく起こっていることなのではないだろうか。
幸せになるためなのに、その教えの微妙な認識の違いで葛藤を起こし、
逆に関係を悪化させてしまうことなどが。
私たちの本質は喜びだ。
その喜びが自我という厚い雲に覆われて見えなくなっている。その煙幕を少しづつ消していくために日々の実践がある。自我が作り出した大量の言葉を消していくために。
でもそれを訂正し消していくために、その自我が作り出した言葉を使うことになる。いわばもろ刃の剣。
だからこそ、慎重に扱わないといけないんだな。
大事なことを教えてもらった。
本当に兄弟は救世主だ。
言葉が消えた瞬間、私たちは繋がっていることに気づく。
すでにたったひとつの愛であったことを思い出す。
そこに常に触れていたいと思う。
絵:「健康と生活」表紙イラスト
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