2021年9月25日土曜日

ニヤニヤする


 


コース/A Course In Miraclesを学ぶ仲間がいる。


それはとてもありがたいことなんだけど、コースの言葉使いは独特で、

言葉の解釈の違いで、会話がずれていくことがある。

相手を否定せず咎めず話そうとするが、だんだんちぐはぐになっていく。


例えば、意識、赦し、罪悪感。

よく使われる用語だが、これがとても難しい。

互いの認識の違いで全くちがう話になってしまう。



昨日もそんな仲間と楽しい時間を過ごして帰ってきたが、

夜中になって苦しくなってきた。


言葉にならない言葉の嵐が私を襲う。

聖霊に聞く。


この苦しさは私が間違った方向を選択しているからだ。

私には何もわかりません。

あなたの見方、考え方を教えてください。


布団の中で小さくなって、吹きすさぶ言葉の嵐に乗らず、ただ耐えていた。



夢を見た。


家の外から、私を大声で何度も呼ぶ声がした。

玄関に出てみると、どこかで会ったような会わないような、でもなぜか知っている女性が立っていた。


彼女は満面の笑顔で私に会いに来てくれていた。

その顔は、会えてよかった!あなたが大好き!と、私を全面的に受け入れてくれている顔だ。

たくさんの人がうちに向かって歩いてくる。その背後には大きなトラック。

野外音楽のステージができるトラックのようだった。

その中からもわらわらと次々にやってくる。


そしてその中で知っている顔を見つける。久しぶりに見たその彼の顔はとても清々しかった。


突然家の中からダンナが走り出てきて、彼をがっちり抱き寄せた。

「よくきてくれた!」

二人のダイレクトな愛の交流にまわりも微笑む。


その後ろに私の知り合いがいっぱいいる。お互い知っているはずのないもの通しが、まるで昔からの友達のように一緒に。

大勢の人に囲まれて、私はこの上なく嬉しくなった。

互いに何も語り合わないのに、とても大きな愛の感覚に満ち溢れていた。


「言葉なんていらないのだ。。!」

と感じた時、昨日会った友達のことを思い出した。


ああそうだ。言葉があるから人はそこに違いを見つけ、その違いで戦い合うのだ。。。!!!





昨日のコーヒーショップでのシーンを思い出した。


ある出来事があって、私は彼女にコーヒーをご馳走になったのだが、ある時からどうしようもなく心が幸せでいっぱいになった。楽しくて嬉しくて、大声で叫びたいくらい彼女のことが大好きだと感じていた。

なぜか言葉は出てこず、私はただただニヤニヤしているだけだった。


夢を通して、そのシーンに繋がった。


コースのゴールは心が幸せになることだ。

その幸せになるための学びなのに、互いの言葉の認識の違いでぎくしゃくしている。

これは本末転倒だ。


こんなことは、コースの学習者の間でよく起こっていることなのではないだろうか。

幸せになるためなのに、その教えの微妙な認識の違いで葛藤を起こし、
逆に関係を悪化させてしまうことなどが。




私たちの本質は喜びだ。

その喜びが自我という厚い雲に覆われて見えなくなっている。その煙幕を少しづつ消していくために日々の実践がある。自我が作り出した大量の言葉を消していくために。


でもそれを訂正し消していくために、その自我が作り出した言葉を使うことになる。いわばもろ刃の剣。

だからこそ、慎重に扱わないといけないんだな。


大事なことを教えてもらった。

本当に兄弟は救世主だ。




言葉が消えた瞬間、私たちは繋がっていることに気づく。

すでにたったひとつの愛であったことを思い出す。

そこに常に触れていたいと思う。




絵:「健康と生活」表紙イラスト






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