「これ、ダメじゃん」
「え?ダメ?じゃ、こっちは?」
「それもダメ」
「え~~。じゃあどうすればいいのよ~~~っ!」
「。。。。」
「あれ、言ったほうがいい。」
「あ。やっぱり?そうだよね。言った方がいいよね」
と納得して言う。
「あれは言わない方がよかった」
「え!言った方がいいって言ったじゃん!」
「そんなこと言ってない。君が勝手にそう思っただけだ」
「え~~~やっぱり~~~?あ~~~言わなきゃよかった~~~」
これ、私の心の中の会話。
これをずっと60年近くやってきた。
心の中の声だから、私の味方だと思ってきた。
でもよくよく振り返ってみると、この言葉は私を混乱させているだけだ。
これはダメだとか、こっちの方がいいとか、意見を言いながら、最終的な答えは出さない。
じつは答えなど、知らないのだ。
自我はこの世界のことはなんでも知っている風を装う。
だから思わず聴いてしまう。
「どう?いけてる?ダメ?」
大抵ダメ出しが入る。
じゃあどうすればいいのか?と聞くと、適当なことを言う。
その根拠を聞くと、これまた適当なことを言う。
そのうちわけわかんなくなると、君がいけないのだとのたまう。
そうやって自分の中で自分に聞く、自分の中の声と話すと言う習慣をずっと続けてきた。
でもこれが苦しみの根源なんじゃないかと気づき、私はこの声を疑い始めた。
淡々と観察していると、ほとんどの内容が否定。
私の容姿についての問題点、能力についての問題点、行動についての問題点、考え方についての問題点、もちろん感情についての問題点。
視点は外にも向かう。他人の問題点、社会の問題点、問題点、問題点、問題点、問題点。。。。
問題があればそれを放っていくわけにはいかない。
それを解決するべく、解決法を一緒に考える。
これがいいかしら、それはダメよね。でもあの手ならなんとかなる。。。。
声は意見を言うだけ。やるのは私。
ところがその声はやった先から文句を言いはじめる。
それはやっちゃいけないことだったのよ、うんぬんかんぬん。。。
これ、否定しかしてないじゃん!
この声が、私を長い間苦しめてきたのだ。
ちょうどその頃、私はもう一つの「声」の存在を知り始めた。
その声は今までの声とは違う、静かで音にもならない。
ただ一瞬のひらめきを与える。
そのひらめきにハッとする。
「そうだ!そうだった。今までなんで気がつかなかったんだろう!?」
心がぱあっと開くような感覚。
何かが解き放たれていくような自由な感じ。
だから余計に、今まで大騒ぎしてやり取りをしてきた声との違いがわかる。
大声で私を否定をしてくる声と、
静かに私を肯定し、さらに心を広げてくれる無言の声。
その声はこの世界の中での具体的な行動についてなど話さない。
なぜならこの世界を見てはいないからだ。
行動ではなく、ものの見方の方向転換をうながしてくる。
「そっちの考え方ではないよ。こっちの方。こう考えたらどうだろう。。」
うるさい声はいつも胸がザワザワとし、締め付けられるような感じがするのに、
それとは真反対の考えになぜか胸踊る。
それは本当は私はそっちに属しているからなのではないだろうか。
前者のうるさい声には教えられてきたが、
後者は元々の私がいたところ。
だから教わる必要はなく、思い出すところ。
すでに知っているもの。
今日も朝からトイレの問題が起こった。
それまで穏やかだった心は一気に反転する。
私はどれだけ目に見える形象にとらわれているのかを思い知らされる。
そこにまとわりついてくるありとあらゆる観念。。。
腐っていく床、電話、修理、過去の嫌な思い出、、、、。
自我はささやく「これダメじゃん」
噴き出す感情。
心の訓練は続く。。。
その訓練に卒業はあるのかなー……(><)
返信削除Unknownさん、
返信削除その訓練に卒業があるとすれば、もう悟った人ですね。