先日気がついた「言葉をとっぱらう」。
彼だけにそれを使うのはもったいない。
出会う人たちにやってみる。
例えば、町内会で出会うおじさまたち。
役員会で毎回議題に上がる「しょーもねえこと」。
長々と続く言葉の山。その言葉の端々を聞いていると、
「いや。そうじゃない」とか
「そこ?そんなこと言っちゃってるわけ?」とか
「どっちだっていーじゃーねーかよー」とか
山のようにジャッジが出てくる。
おじさまと私との間の空間に、言葉言葉言葉が充満し始める。
目の前のおじさまがだんだん言葉だらけで遮られて、見えなくなってくる。
そこで私は、その言葉の山を両手で、ざあーーっ!と脇に寄せるんだ。
するとおじさまと私の間に何もなくなる。
そこにいたのは、ステキでかわいくて、とても人に気遣いをする優しい存在がいた。
そうだったそうだった。彼はこういう人だったと思い出した。
思わずほっこりする。
人は言葉の端々をつかみ、「それを言うあんたはどうよ!」と、
言った言葉に対してジャッジする。
それを聞いた相手も、「お前こそ、どういうつもりだ!」
ジャッジされて「はいそうですか」って素直に引きさがる人はそういない。
売られたケンカは買うのが筋ってもんでい。
たとえそれが口に出てなくても、
二人の間でエアー討論会が起こっている。
下手すりゃ、朝まで生テレビ。
実はそれが自我のねらい。
ケンカふっかけあって、いかりや恐れが勃発してくれるのを望んでいる。
映画マトリックスを見たことがある人は、仮想現実のエネルギー源になっているのは、チューブに繋がれた膨大な人類の想念であることを見ただろう。
人間電池。
あんな状態が実際あるわけではないだろうけど、私たちの恐れや怒りがエネルギーになって、この世界を維持している。
維持させたいのかさせたくないのかはひとまず脇に置いといて、
まず心が不快な状態であることに気がつくことだ。
言葉がその人となりを作っているように見えるが、それこそ架空。
その人の本質はその言葉を超えたところにある。
何をやってきた人か、何を言ってきた人かなんて、時代とともに価値観はころっと変わってしまう儚いもの。
言葉をとっぱらった目の前のおじさまは、やっぱりステキな人。
このことを思い出すことは、
その人自身がそれを思い出すことになる。
それはたとえ言葉に出さなくても、
相手をジャッジしていることが伝わるように、
以心伝心。瞬時に起こってくる。
だからおじさまは自分のステキさを思い出すことだろう。
ステキじゃない?
言葉はその人じゃない。
自我が言わせたもの。
そして自我は、その人じゃない。
その人はそれを超えたところにある尊い存在。
絵:「笠地蔵」
なるほどーー
返信削除でもさ、日本には「言霊」ってのがありますよね。
今回の話の趣旨とはズレてますが^^;
Unknownさん、
返信削除コメントをありがとう。
言霊。ありますよね。
私も昔、それについて勉強していました。
言葉はそれを発することで、それを存在させるほどの力があります。
だから言わば、もろ刃の剣でもあります。
その言葉の力を知っているからこそ、言霊という言葉が生まれたのでしょう。
いい方向に使えることを願って。
ステキなアドバイスをありがとうございます。