2020年10月22日木曜日

バチ信仰

 



小さい頃から「バチが当たる」という言葉にビビっていた。


神様はいつも私を監視していて、いいことをすればご褒美をくれ、悪いことをすればバチを与える。

その信仰はつい最近まで続き、悪いことしないように気をつけなきゃと慎重に生きてきた(つもり)。


でもイヤなことはいきなり起こり、

「何!?何!?いったい私、何悪いことしたあー!?」

と、悪いことをしたからバチが当たったのだと信じ、その理由を探る。


探せば大抵何かが思いつく。

「あれかなあ。。。あれにしちゃあ、バチが大きすぎる。。。やっぱこれか、、な、、?」


それはまるで、悪いことが起こった原因を見つければ、もう悪いことは起こらないような気がして。

しかし意に反してイヤなことはまた起こり続ける。





バチを当てる神は、どんな神なのか。


神様はいつも私たちを監視して、いいこと悪いことを見分ける。

神はそんなに怖い存在なのか。どっちかというと閻魔様に近い。

神のご機嫌を取りながら、ビビりながらこの世界を生きることを強いてくる存在なのか。


この世界のいいや悪いは、立場によってコロコロ変わる。

国が違えば法律も変わる。

手で食べちゃいけません!という日本の神様と、

手で食べなければいけません!というインドの神様は、どこらへんで分かれるのか?


神様はそもそもそんなに了見の狭い存在なのか?




そんな疑問を持つうちに、「バチを与える神様」を教えてもらうもっと前に、

ずっとそばにいた存在を思い出し始めた。


それはとんでもなく優しく、暖かく、穏やかで、

私がどんなことをしても微笑んで見守ってくれている何か。


その存在は、いいこと悪いことなどという種分けをしない。

この世界で犯した私の罪を、罪とも認めない。

その圧倒的な包容力に気が付き始めると、今までバチを与えてきた神が一体何だったのかがわかってきた。


それは自我だったのだ。

自我は神の仮面をかぶって、私を罪人だと信じ込ませ、

バチがあたるにふさわしいものだと教えてきたのだった。


自我の声は大きい。あれがいけない。これがいけない。ああするべき。こうするべき。

私がずっと悩まされ、振り回されてきたその大きな声は、神のふりをした自我そのものだった。


この世界など神は作っていない。ここは自我が作り出した世界。

だからこそこの世界に詳しい。

私たちがずっとこの世界に魅了され、とどまるように飴と鞭を使う。




私は大騒ぎをする声の、その奥の静けさの中の声を聞こうとした。

ずっと昔いつもそばにあったその声を。


まだまだ遠くに聞こえるその声ではあるが、心をとても穏やかにしてくれる。

その存在は、私を監視などしていなかった。

そうではなく、全てを一瞬たりとも見逃さず、ただただ見守ってくれていたのだ。


目の前に展開する知覚の世界が、昔見た薄いぺらぺらのハリボテのように思えてくる。


カーテンを開けるように、その知覚の風景を開けると、奥には眩ばかりの光があった。

私という体もそのカーテンとともに開かれてその光と一体になった。



この世界は全てのものが分離で成り立っている。

それはこのあなたと私という分離した肉体の目から見た世界。


しかしその世界は霧のようなもので、

それを通り抜けると、すべてが一つだった。






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