2019年2月18日月曜日

奇跡講座の赦しについて



奇跡講座を学んでいて思うことがある。

この学びはものすごーく独特である。徹底的に自我を崩壊させようとする、容赦ない学びであるが、その中でも突出して鍵になるものがある。
それが赦しというものである。


この赦しとは、奇跡講座独特の考え方で、一般的な許しとは一線を画する。
許しとは、あいてが気に入らないことをしたことに対して、寛大な気持ちで
「このやろう、やったな。しかしこーみえて私は心が広い!であるからして、許してやろう!」
という態度でのぞむのが一般的な許し。

ここで漢字がちがうことに注目していただきたい。
「許し」と「赦し」おなじ音の「ゆるし」でも、この二つはちがう。


こっちの許しは、「行為が起こったこと」であるという前提だ。

え?なになに?そりゃ、起こったでしょ。
起こったから、わたし怒ってるんでしょ!
見たんやぞ!今目の前でやったのを見たんやぞ!
それは決して訂正できるもんではないぞ!
そやけど、その罪に対して寛大な処置をしてやろうじゃないの。
なんて太っ腹なんだ、あたし!

この崇高な行為は、正直、ちとやせがまんなところがある。



もうひとつの赦しは、これとは全然違うアプローチをする。
「え?やった?やってないよ。ウン。君はじつはなんにもやってない。
ってことは、怒る必要がないじゃないか。だから赦すよ!」

奇跡講座の根本概念は「世界はない」というもの。
ほら、よく悟った人が「この世はマーヤである」とか「この世は夢である」とかいうじゃない。あれあれ。あれを地で行くのね。(軽く言いやがったな)


この世は夢なので、実在していない。
だからあんたが私にやったことも、実在してない。
だから赦すも赦さないもないんだけど、まだ私らは自我のど真ん中にいるから、赦しという夢の中にある道具を使って、この世があると信じている心を解凍させていくのさ。


自我そのものである私たちは、赦しという解凍道具を使う。
しかしそれが解凍され消すのは、私ら自我の役目じゃないらしい。
こっから先は、神さまとか聖霊にお任せする。

自分で「赦す!」と宣言して、後は彼らにおまかせ。
どんだけ他力本願なのじゃ!と思うけど、なんでも出来るはずって思わされたからねー。
「やれば出来る子YDK!」って。
けど、出来んこともあるのじゃ。



そうやって、赦し全開でこの世を解凍していこうとするのだけれど、なかなかどうして、この世は手ごわい。

やったあいてを目の前に見て、指を振って
「やってないよ。うん。じぇんじぇーんやってないっ!」
って言ってみても、そうは思えない。
それでどんどん苦しくなってくる。


そこで奇跡講座に出会う前にやっていた、自分の感情を見つめるという自我の観察が生かされた。
自分を怒らす対象を見て、「これは夢なのだ。赦そう」と言い聞かせても、そうは思えない。
けれども自分に起こる出来事は、自分の中にある観念に気づくためだということにもとづいて考えると、目の前にいる人を消すことよりも、自分の感情にフォーカスするのだ。

怒りなどがあると、人は必ず自分の中で自分を正当化しようとエアー演説をする。そのときあたまの中は言葉だらけになって爆走しているはずだ(笑)。

その言葉の爆走にノってしまえば、いつものことになる。
そこでそのエアー演説をただ聞き、ほっておく。そして観察の対象をからだに向ける。今、何を感じてる?どんな感じがする?と。

いつのまにか、演説は消えている。フォーカスがからだに移行しているからだ。微細なからだの変化を見るだろう。その観察の最中に自分の中にある観念に気づくこともあれば、過去の出来事を思いだすこともある、そんなことにフォーカスしているあいだに、きっと最初の怒りはどこかにほっておかれているはずだ。

そうなると、赦しもかなり楽になる。何も起こってない、何もやってないこととして、宣言する。そしてまた、それに対して怒りを覚えた自分さえも赦すのだ。
あとは勝手に神さまがうまいことやってくれる。

私たちは内側にあふれている自我の暴れにふりまわされている。まずはそのことに気づくことからだろう。

空に浮かんだ雲。
雲はけして止まることがない。いつもその姿を変える。私たちの心もまた雲と同じようなもんだ。じーっと眺めていると、どんどん変化していく。どんよりの雲、大雨の雲、バニラスカイの雲。。。。
そのたくさん変化する雲を捕まえて、「これが私だ!」と言い続けている私たち。

ほんとは、その背景にある真っ青い空だ。
私たちの本質は何もないまっさらな空間。青い空。
いつもそこにある、常のもの。


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