2018年1月17日水曜日

「盗む」



小さかった時のある記憶がよみがえった。

「あ、私はあのときほんとうは知ってたんだ。。。。」
それは自分にあるレッテルを貼ったときの記憶だった。



その頃、私はりかちゃん人形のセットをいっぱいもっていた。父は貧乏だったが、母の実家がお金持ちだったので、いろんなものを買ってもらっていたのだ。
そこによく遊びにくる女の子がいた。学校の帰り、うちに寄ってひとしきりいっしょに遊んでは帰っていく。私はその時間がとても楽しかった。

あるとき、その子が泣きながらウチに来た。手にはいっぱい見覚えのあるものを持って。
母は彼女に言ったようだ。
「ウチのものを全部返しなさい」と。

彼女の家はすこし貧しかった。私がもっているお人形が欲しかったのだろう。彼女はウチで遊ぶたびに、少しずつ盗んでいったようだ。母はそれに気がついていた。

そのときの私は驚きと同時に、自分にレッテルをはった。
自分のものが盗まれているのに、気がつきもしない、ぼーっとしたおバカな私。
それ以来、私は自分のことをそうおもいつづけていた。



そしてほんの最近、いきなり気がついた。
「私はそのことを知っていたのだ」と。
ただ、母とはすこしちがっていた。

彼女が遊びにくると、ものがへっていく。
彼女がもっていった。
ただそれだけだった。

そこには彼女への責める気持ちがなにもなかった。
そこにはまだこの世にあるいろんな解釈がなかったからだ。


その出来事から、私ははじめて「盗む」という言葉を知った。
そして「盗む」ことは「いけないこと」という解釈があるのを知った。
いけないことをする人は、悪い人というレッテルが彼女に貼られた。

わたしはというと、
自分のものが盗まれていることにも気がつかない、悪いことがなされているのにかかわらず、気がつかないおバカな私というレッテルが貼られた。

盗むと言うことは前提に、自分のもの、他人のもの、という区別がある。
減って行くことに気がついていた私は、自分のものがへっていくという自覚がなかった。
あの頃私には自分のもの他人のものという区別があまりなかったのかもしれない。それはひとりっ子だったせいもあるのか。兄弟と取り合うと言うことがなかったから、それが芽生えなかったのかもしれない。


それを思いだしたとき、なぜか心が嬉しくなった。
彼女を悪ものにしない、おおらかな自分が、たのもしく思えたのだ。
それは決して「おバカな私」ではなかった。



私たちは言葉を知る。
「盗む」という言葉は、「悪いこと」という解釈を生み、それをする人は悪い人という新しい恐怖を生む。
自分のもの、他人のものと区別をすれば、そこにとるとられる、盗む盗まれるという二元があらわれる。
おまけにそれに気がつかない私はおバカ。というレッテルまで貼れる。
そこにはよろこびはなく、怖れと怒りと嫉妬と不安が立ち上がる。

なんというややこしさ。
なんという物語性。
なんという悲劇性。

彼女はその後ウチに遊びにくることはなかった。


本当は、彼女と一緒に人形あそびをして楽しかった。以上!だったのだ。
何のレッテルも、何の解釈もなかった。
そういう自由さがあったのを、言葉という解釈によって、制限をかけていた。
そして深い所で否定していた。
それが50年ぶりにとつぜん浮上してくる不思議さ。

また戻ろうとしている。
何も知らなかった頃に。

ただ今にあって、それだけで充足していた頃に。


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