私たちは、答えを求める。
どこかに答えがあるはずだ。
きっとどこかに。
そうやって、ずーっと探しつづけて来たわたし。
だんだん、うすうす、気がつきはじめる。
ひょっとしたら、答えなどないのかも。。。。
いやいや、そんなことはない。
小学校の頃から教わって来たのだ。
答えは必ずある。
しかし大人になって、そう簡単には答えがでないものを知る。
もっと大人になって、もっと答えが出ないものを知る。
しかし、事はもっと重大になって行く。
生死を分ける所まで行く質問に、切羽詰まった答えが要求される!
しかし答えが出ない!!!ああっ!!!
ありとあらゆる本を読む。
ありとあらゆることをやる。
そして、自分の内面にまで探し求めるはめになる。
そして、、、
あれ?
ひょっとしたら、答えなどでるもんでもなかったのかも。。。。
答えとは、「正しい」ものが答えだ。
間違っていては、答えとは言わない。(あたりまえだろ)
間違っていては、答えとは言わない。(あたりまえだろ)
しかし「正しい」とはなにか。(あ、うっとおしいところに入りよった)
それは時代によって、時間によって、人によって、民族によって、家族によって、学校によって、システムによって、会社によって、ちがうのだ。とゆーことは、絶対的な「正しい」はどこにもないではないか。
そもそも「自我」に答えなど出せるわけがなかった。
自我は過去にもとづいた既知しか思いだせない。すでに知られている使い古されたもの。
それはその時の答えになったかも知れない。しかしそれはそのとき有効だっただけだ。
けれども私たちは生きている。瞬間瞬間新しい中にいる。それを古いもので解決することの意味のなさったら!
はれ?
答えって、ないのかも。。。
そうおもったとき、心が56キロほど軽くなった(エライ具体的な数字やな)。
絵:「セックス嫌いな若者たち」MF新書表紙イラスト
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