バイト先じゃ、わたしは「無能な人」。
時間までに商品を作れない。
きれいな商品に出来ない。
たよりない。
きれいな商品に出来ない。
たよりない。
かつてニューヨークでガンガンにペーパーバックの表紙を飾っていたこのわたしが「無能な人」(笑)。
でもほんとうは、小学校の頃から「のろま」で通っていた。
何やっても遅い。何やらせても出来ない。そんな存在だった。
それががんばって、がんばって、がんばってやってきたが、ここにきて、
やっぱりもとの「無能な人」にもどった。
なーんだ。
やっぱりここに落ち着いたか。
それがなんだか、ここちよい。
バイト先じゃ、わたしは出来ない人。
だから期待もされない。
今まで、がんばってき過ぎたなあ。。。そうしみじみおもう。
あの「のろま」なわたしが、よくぞここまで。。。と。
仕事の出来ない人は、ある意味、必要な存在じゃないかと思うんだ。
なぜかとゆーと、ちょっとムリをすれば、できる。
ホホーできたか。
じゃあ、もうちょっとムリをすれば?
お!出来るじゃないか。
じゃあ、もうちょっと、もうちょっと。。。。
と、どんどんムリが重なる。
そうやってこの今の社会は成り立っている気がする。
その結果が、心もからだもぼろぼろになる。そんな現状を作ってきたのではないか。
アマゾンの無料宅配が、ヤマトの宅配さんを圧迫している。
わたしも日々ヤマトさんに頼んでいるけど、見るからにたいへんそう。
ちょっとがまんすれば。。。ちょっとむりすれば。。。ちょっとがんばれば。。。
そういう、ちょっとちょっとの頑張りが、出来ちゃう結果が、これだ。
わたしゃ、がんばらない。
いや、がんばれない。
いや。がんばろうと思えば、がんばれる。
だけど、それをやって、どうなる?
もっときつくなるだけや。
私らの時代は、がんばることが美徳だった。がんばって、いい結果を出す。これがなによりの報酬。
だが、そこにあるのは、ただ自分が「出来る人」とおもえる満足感を味わえるだけ。
そのときは、まわりも「よくがんばりました」と、ほめてくれるだろう。だけど、それは一時のこと。そのすぐ後にまたほめてもらうためにがんばらなくてはならない。それはきりがない報酬じゃないか?
そしてそのあとは?
ただ、自身のからだのきつさが残る。
満足感や達成感のためだけに、自分の身体を犠牲にするのかい?
わたしゃ、「出来る人」をやめる。
「出来る人」を演じるのをやめる。
出来ないままにいる。
本来の自分でいる。
そういう人がいてもいいんじゃないか?
無能な人、仕事場で迷惑な人、空気読まない人、そんなひとがいる。
そういう人が、結果的に、どんどん加速度的にきつさが強くなって行く、この神経質な社会に、ストップをかけて行く。このままでいいんだろうか?って、疑問を投げかける。
そして、じょじょに社会は変化して行く。
もっともっとの時代から、
結果結果の時代から、
人の本当の幸せとは何か?
モノではない、幸せとは何か?
と、考えはじめる時代へと。
もっともっとの時代から、
結果結果の時代から、
人の本当の幸せとは何か?
モノではない、幸せとは何か?
と、考えはじめる時代へと。
そういうことの始まりをおこす無能な人を「つくしる」という。
「つく汁」、飲んでみる?
(いらんいらん)
絵:「江戸めしのすすめ」/MF新書表紙
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