2017年2月15日水曜日

「この可能性が目に入らぬかーっ!」の恐怖


何%の確率で、何々になる可能性があります。
何%の確率で、何々がおこる可能性があります。

可能性。。。。
よい可能性だったら、うれしいけれど、たいてい人は悪い可能性のことを注視する。
どこかに悪い事が起こる可能性を発見し、「あーーっ!それ問題!」といって、それを避ける方法を見出す。

可能性って、くせもんだよなあ。
99%は可能性だろうけど、
1%だって、可能性だもんなあ。

1%なら、「へへへっ」って、わらってすごせるけど、
37%とか言われると、「な、なんかびみょ~~~」だよな。

人はその可能性の中でびびる。
1%はわらけるけど、37%はびびる。
だけど、実際は、「起こる」か「起こらない」かのどっちかだ。

ところがその起こる可能性の出来事も、期限がなければ、
「ほーら、起こらなかったじゃないか!」
とも言えなくなる。
何十年もたって、それが「起こった」なら、
「フフフ。やはり起こりましたね。だから言ったじゃないですか。37%の可能性があるって!」
とかいわれることになるのだ。それってどうよ!

いつ起こるかわからない可能性を、日々ビビりながら生きる。
「問題」さえ見つければ、「解決」さえ見つければ、私たちは幸せになれる。
問題を見つけて、解決法を見つけて、ホッとしたのもつかの間、またある日、新たな問題が浮上する。そしてまた新たな解決方法を見つけて行くのだ。

そうやって問題を見つけ続けてはたして、しあわせになれるのだろうか。この世はとんでもない量の「問題」に満ち満ちているのに。。。

ある日ひとつの事件が起こると、その「可能性」を示唆して、その回避システムを作る。そうやって次から次に回避システムを作るうちに、何だか歩ける所も少なくなり、動く範囲も心なしか小さくなり、行動する自由度が減って行く。
「ええ〜〜?」とかいうと、
「だけどそれが必要なのよ!なぜなら。。。」と、「可能性」について語られはじめる。

「可能性」はいわば、一種の印籠だ。
「この可能性が目に入らぬか!」
「ははあ〜〜っ!おでえかんさま。おっしゃるとおりでごぜえやすう〜〜」
と、みんな黙る。

外を変えればわたしたちはしあわせになれると思っている。外のシステムを変えれば、いつかしあわせになれると思っている。完璧な政治システム、完璧な経済システム、完璧なエネルギーシステム、完璧な医療システム、完璧な教育システム、、、、。
そんなもんかね。


そんなもなあねえよ。
その完璧さを求める、その心が「問題」なのさ。
心が、問題を生み出す。
いや、心は「問題」がお好き。
問題を求めて飽くなき戦いをするのがお仕事。
そじゃないと、「自分」がいられなくなるから。

お日さん浴びながら、
「ほえ〜〜〜、いいおてんき〜〜〜」
なんていってたら、心さんの仕事がなくなってしまうじゃないか!
だから、
「いやいや。そんなほげっとしているばあいではない。なんかしなかれば!」
と、自動的に働かされるのである。

そーゆーふうに、心さんにあやつられているのが、今のわしらなんである。
すっかり、しっかり心のワナにはまってるのである。

不幸は、苦悩は、心の中にしかないのだ。

外ではない、超個人的なその心そのものにフォーカスする時代が来ているな。




絵:「成毛眞の超訳・君主論」表紙イラスト

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