2016年12月21日水曜日

今ここにいない



駅前で人の往来を見る。
一人の若い兄ちゃんが、スマホを歩く方向に向けて、にやにやしている。耳にはイヤホン。何か楽しいことでもやっているんかな。

その後ろを、老女が歩いている。キャリーカートを後ろ手に引っ張りながら、うつむきかげんに、誰に話すでもなく口が動いている。

私はそこではっとする。
駅に向かう人、駅から出る人、スーパーに入って行く人、キャッシュコーナーに並ぶ人、歩く人々、すべての人たちの心がそこにはない。
兄ちゃんは、イヤホンでなにかを聞いている。老女は、心の中でだれかと話している。ほかの人々は、口は動かないけれど、心の中でなにかと対話し続けている。

わたしたちは、今、自分がやっていることに感心がないのだ。

『私は今、歩いている。
ただ歩いていることにだけに意識を向けるほどバカなことはない。こうしているあいだにも何か「建設的」なことを考えるべきだ。
そうだ。あれはどうしよう。あれはどうやったら解決するだろう』
などと考えているのかも知れない。

賢者は「今ここ」に意識を向けろと言い続けている。
今、ここ?
そういわれても、なんか漠然としてて、つかみどころがない。
すると心は、みょうに居心地が悪くなって、自動的に何か他に掴むことが出来るものを探して、うろうろしはじめる。

あった。みつけた。あれだ。そうだ、あれを考えなくちゃ。
そういってまた考えはじめる。
心は今ここから、するりとすりぬけて、未来におもいをはせる。
『あれをやらなくちゃ』

兄ちゃんは、今歩くことが退屈で、スマホで遊んでいたのかも知れない。老女は、ただ歩くことはどうでも良くて、何か問題に向かって文句を言っていたのかも知れない。
人はただいることは退屈で、スマホで今をやりすごしているのかもしれない。
ただ夜を過ごすのは退屈で、テレビのチャンネルをカチャカチャ変えているのかも知れない。

無意識にやっていることに気がつくと、心はせわしなくなにかにすがりつこうとしている自分に気がつく。あたまの中が、どれだけ考えに満ちているかに気がつくと、あまりの量に呆然とする。

なにかを考え出せれば、きっとしあわせがやって来る。そう思って、人は考え続ける。


どうもそこには答えがないらしい。

絵:「冬の景色」

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