裏高尾の一部の山が伐採されている。市のスギ花粉対策の一環だとのこと。スギはもちろん、ケヤキもすべて。間伐じゃなくて皆伐。大きなケヤキの木も気前よく切って、山の斜面に倒れている。
その伐採されたケヤキを近所の人がもらい受けて、薪ストーブの薪にするらしい。とにかくでかい。運ばれてきた時は、ここは材木屋か!?というぐらいすごい量だった。ご主人が専門家の人と毎週末チェーンソーで輪切りにして、それを斧で割る作業をずっとしている。
今日もいた。なかなか片付かないケヤキの山をながめて呆然としている。やまんばが挨拶しても気がつかない。
帰ろうとすると、
「あっ、ああ、ごめん、ごめん。気がつかなかった」
「いいんです。たいへんですもんね」
すぐ横に植わっている淡いピンクの梅の木が満開だった。
「梅、きれいですねえ」
「いや、きのうもね。作業で疲れ果てて梅の木の下に座ってたら、『優雅ですねえ~』っていうんだよ。こっちはそれどころじゃない。もうへとへとだよ」
確かにこの梅の木の下に座っている姿は優雅に見える。皮肉なものだ。座っている本人には、梅がきれいかなんて、ちっとも見えない。だけど第三者から見るその風景は、
「薪ストーブの薪割りをして、満開の梅の木の下でくつろぐ優雅な人」
にしか見えない。
このことばはやまんばをぎくりとさせた。
私たちは自分がいかに豊かな場所にいるのか気がつかない。
イヤなこと、疲れること、不快なことにすぐ目が行く。そうしてそれを振り払うことばかりに目を向ける。だけど人生はそんなつらいことばかりではない。
そもそも薪ストーブを造れる家があるし、材木を山ほど置ける庭があるし、美しい四季折々の季節の樹々が咲くし、山から材木をもらって来れる立場にあるし、専門家の方に手伝ってもらえる人徳がある。
外から見ることができれば、これほど豊かなことはない。
そしてそういうときほど違う視点で見れば、その辛い作業も違って味わうことができるんではないか。
やまんばにも色々辛いことがある。辛いことにばかりに目を向ければ、辛いものが大きくのしかかって来る。
しかしこの一件は私にヒントをくれた。
すでにもっているものに目を向ければ、足りないものなど、なんてことない「事実」だったのだ。ほんの少しの「問題」でしかなかった。
今もっているものは、途方もなく大きいものだ。その視点から見れば、すべてはうまく進んでいる。
それはさっき、薪を割るご主人の言葉を聞き、それにぎくりとする、ということまでも。
なるほど・・・それは、確かにその通り、気が付きにくいですね・・・
返信削除灯台もと暗し。。。ってかんじかな。
返信削除宝物は、すでに持っている。。。。
というのを最近つくづく感じます。