2014年12月27日土曜日

なにかしないと価値がない?



私たちの葛藤のほとんどは、自分への無価値観から来ているんではないか。

私たちは、ただそこにいることを許されていない。
ただそこになんにもしないでいるということは、無価値であると。
何もしないことは、「あなたには価値がない」といわれていることといっしょだ。

仕事があるということは、その人に価値があるということだ。
仕事がないということは、その人に価値がないということだ。
クライアントにクレームをもらうということは、能力がないということだ。
能力がないということは、その人に価値がないということだ。
お金がないということは、その人に価値がないということのことだ。
成績が上がらないということは、その人には価値がないこということだ。
子どもができないということは、その人に価値がないということだ。

なんという暴力的な価値判断なのだ!!!
私たちはこんな価値基準で人や自分を測っているのだ。
それも意識にものぼらないほど瞬時にジャッジして、おびえ、いかり、かなしむ。


ぼーっとしていると、はっと我にかえって、
「いけない。なにかしなければ」
と、なにかすることを探す。
そして一日の終わりに、
「あ~。きょうはこれこれができた。私には価値がある」
と、ひそかに自分をほめる。

すると、何もできなかった日は、
「ああ、今日は何もできなかった。そんな私には価値がない」
と自分をしかったり、自己嫌悪したり、あせったり、もっともっとやらなきゃと、自分に切迫感をあたえつづけるのだ。

その根底に「なにかしないと価値がない」がネッコロがっている。


ある小学生の話。
学校で先生に将来何になりたいですか?と聞かれ、きょとんとする。
せんせ~、何になりたいかって?
ぼくじゃ~ん!ぼくになりたいに決まってんじゃ~ン!
いったい誰になるっていうの?


人はつねに何かになろうとする。
アナと雪の女王の日本語主題歌があそこまで受けたのは、ありのままの自分でいたい!という心のさけびじゃないか?女の人がカラオケで熱唱するのは、ずっと自分でない、何かにならなければいけないと思い込まされていたことからの解放宣言ではないのか。

ただそこにいるだけで価値がある。
小学生の彼は、自分の価値を認めている。
そこから行動することはゼロからの出発なので、何かをするとは、「自分への挑戦」だ。結果なんか気にしない。やりたいからやる。根拠なく、やりたい。
そこに他人に認めてもらいたいから、という動機がない。

自分に価値がないと思えば、つまりマイナス出発で行動する動機は、人に認めてもらうことが大前提だ。純粋な挑戦ではないので、結果を気にする。結果が良いことによって認めてくれると思っているからだ。
ところがそれではマイナスをゼロにはできない。人は認めてくれ続けないもの。
だから延々と認めてもらいたがって行動しつづけることになる。
それは底なし沼のような展開をする。


私たちはずいぶん長いあいだ無価値観を刷り込んでしまって、その小学生の彼のようにはなれない。しかし私たちには意志力という才能がある。

今この瞬間に、自分はただここにいるだけで価値があると、自分で自分に宣言するのだ。
そしてそうであるかのようにふるまい続ける。

本当の価値は、あなたそのものだ。


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