小保方サンの研究が、残念な結果に終わった。
彼女は一連の巨大なプレッシャーの中で戦っていたに違いない。
できなきゃいけない、証明できなきゃいけない。でなきゃ、わたしはつぶされる。。。
そう思えば思うほど、皮肉なことにそうなっていく。
それまでは、「あ、できちゃった!またできるかな?うん!できた!るんるる~ん」って、つくってきたんだろうな。
でも彼女の「できちゃった」ことが、あまりにもすべての土台をひっくり返すよーなことだったので、あたまのかたいおっさんたちに嫉妬された。そこで人々は彼女のアラを探すよーになる。
するとまあ、でてくるわでてくるわ、破壊的なノートの数々。つっこみどころ満載の彼女スタイル。そりゃ、おっさんもメディアもおいしいわな。本題よりも、そこツッコミをしていれば、人々は彼女を疑いはじめ、存在自体が怪しーものに見えてくる。
このあいだまで、国民的英雄持ちあげだったのが、いきなり全世界を敵にまわしてしまった。
その重圧は、あの若い彼女にはとんでもなく重くのしかかる。いや、若くなくたって、心臓に剛毛が生えた政治家さんだって。
自分の全存在をかけた実験だっただろう。
今の彼女の心境は、とてもじゃないが推し量れ切れない。
影ながら応援していたやまんばは、彼女の今の状況を本当に気の毒に思う。
私らが目で見ているマクロの世界よりも微細なミクロの世界は、ダイレクトに心の影響を受けるようだ。それはあると本当に確信した瞬間、出現する。しかし実験者の心に疑いが生じれば、それは出現しない。
証明できなきゃいけないというおもいは、確実にその存在に疑いをもって臨んでいる。
ないかもしれない。。。は、ないを生みつづける。
最初の「できちゃった!るんるる~ん」と、
後半の「証明しなきゃいけない」のちがいは、
月とスッポンぐらいのちがいがあるようだ。
彼女の一連のことは、私たちが日常何気なくくりかえしていることを、端的に表してくれている。
「できちゃった!」と「できなければいけない」のちがいを、心は調節できるのだろうか。
「できちゃった!」は、「できるかな?どお?」って、ワクワクしながら臨んだ結果ではないか。
それは軽くて明るい。
「できなければいけない」は、「できないと私は終わる。。」と、悲壮感漂わせ臨んだ結果ではないか。それは重くて暗い。
前者にドラマはないが、後者にはドラマがたっぷりある。
どっちをえらぶかはあなたしだい。
決まった運命なんてないのかもしれない。
これ、先日の「のど自慢」でも言えてたかも。
返信削除先日の「のど自慢」、おめでとう!
返信削除とゆーことは、「できちゃったー!」のほうだな。
何事も深刻にならないってことなんかな。