いじめは自分の中にある。
自分の欠点は誰でも知っている。その欠点をしょっちゅう責めるのだ。
「あ、またさぼってる。い~けないんだ~、いけないんだ~」
「だって、だって、疲れてるんだもん!」といいわけをする。
「それを今やっちゃあおしまいよ。あんたの人生、もう、お、わ、り!」
「え~~~~~っ、やめてよ。やめて!それだけは言わないで!」
「お前の人生、お、わ、り!」
「きゃ~~~~~~っ!」
と、耳をふさぐ。
これがいじめでなくてなんという。
先日言った7%の欠点を、人は心の中でひたすら言い続ける。
「そんなこと、言ったことないよ」
中にはそーゆー人もいる。そーゆーひとは、やまんばの話はする~しておくれ。
でも自覚がないだけなのかもしれない。
むかし、自分の事をしょっちゅうラッキーラッキーって言ってる友だちがいた。
「あたしって、ラッキーなのよ~」といつもいう。
はたから見たらそこまでラッキーでもなく、むしろそう思い込もうとしているように見えた。美人の彼女はいつも哀しい顔をしていた。
自分の心の深いところにある哀しみを「ラッキー」という言葉によってごまかしているよーにみえる。これはポジティブ思考と似ているところがある。いい部分ばかりを見て、影の部分をみない。
どっちにしても心の中に、自分には影の部分がある、欠点がある、とガッチリ信じている。
欠点を見つけて自分で自分をいじめる人と、見ないフリしている人のちがいでしかない。
どっちにしても欠点を怖れている。
欠点は取り除かなければいけない。
そうすれば怖れはなくなるのだ。
だから自分をいじめる。だめだめといいつづければ、やがて消えるだろうと。。。。
そうやって克服する事が、勝ち組なのだと教えられて来た。
ここにもうひとつの恐怖がひそむ。
欠点を乗り越えて、克服する事が勝ち組。
ということは、それを乗り越えられなかったものは負け組である!!
という条件づけ。
これがわしらの根底にものすご~~~~~~~~~~~~~~く、息づいている。
よれよれになったジジババにまで浸透している。
努力、努力、努力!
優れたものは上で、劣ったものは下!
人は自分専用の物差をもっている。
小さい時から親や、近所のおじさんや、友人や、八百屋のおばちゃんからもらった大切な物差し。その物差しはアップデートすることはない。ひたすらその物差しで、場面場面で測って優劣を決める。
タンスの引き出しの隅っこにたまったホコリまで、物差しを持って来て測る。このホコリは大きいか、小さいか。あるいは、ここにあるべきものか、そうでないものか。
となりのオヤジはいいヤツか、悪いヤツか。自分は間違っているか、正しいか。あの牛丼屋はお得か、損か。
ひたすら測る。測る。測る。
測れば必ず高い低いがあり、大きい小さいがあり、正しい間違ってるがあり、勝ち組と負け組が登場する。
いじめっ子も測る。
親に怒られると、自分が劣っているかのように思う。その劣等感を紛らわそうと、もっと劣っていると思われる存在を求める。
これがいじめっ子登場の瞬間。彼は優位に立つ事によって勝ち組に入れるのだ。
いじめられっこは、そのまた下を探す。
犬にあたる。
「お前はダメなヤツだ!」と大いに威張る。
勝ち組に入る。
自我は自分より下をみつけだそうとする。
それは気がつかない限り、ずっとくりかえす。
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