私たちは自分にとってイヤなもんを排除する。
「排除」するということは、自分の中にあったからだ。
自分の中にないものを排除は出来ない。排除するという言葉の中に、すでにそこにあるという意味を含んでいる。
すでにそこにあるから、「排除」したがるのだ。
ということは、人のフリ見て「ああ、あいつのここがイヤだなあ」と思う箇所があるとすれば、それはすでに自分の中にあるといっているようなもんだ。
認めたくない?そりゃそーだろー。認めたくないから排除するんだもん。
だけどやまんばは自分の中にある、やなもんを直視した。知ってはいたんだけど、ながーいこと認めたくなかった。だけど受け止めた。
ああ、そーよ。あたしゃあ、ズルいニンゲンよ。
ずるくて、だらしなくて、なんでも人のせいにして、おそろしがって、逃げまくって、問題を後回しにして、そこいらにうんちをまき散らして、人迷惑で、セコくって、いやらしーにんげんなのだ。
他人を見て、「ああ、あいつのここがやだ」とか思うのも、それが自分にあるからイヤなんだ。自分の中にあるものを、他人のすがたに見て「おお、とりはだがたつ」なんていってる。
要するに自分の中にあるものが、ぜ~~~んぶ表に現れて、「はいっ!あなたはこれよ!」と、目に見せて教えてくれてるのだ。
人は目に見えないからこわいとか、わからないとかいう。
だから目に見せてくれてんだ。
「どーだ。見えたかい?これでわかったあ?」と。
だけど「ああ、みえないふり、きこえないふり」ってやってても、もうどーにもこーにも前に進めなくなっちゃった。
だけど受け止めたら、簡単なことだった。。。。
人は両極の意識を持つ。善もあれば悪も持つ。善だけ拾い上げて、悪を排除して来た。だけど排除された悪は影となって私につきまとう。その影を現象によってみせてもらうんだ。
その二つが自分にはある。
ただそれを意識的に受け取る。
ただそれだけだったのだ。
ずるいニンゲンの自分を、開き直って力ずくで認めるのではなく、ただそこにあるものを、非難もいいわけもせずに受け取ることだった。
それがただあるがままに見るということだった。
その言葉って、よくいわれる言葉じゃないの。なんて平凡な言い方。
ああ、言葉ってなんてぶっきらぼうで、おもいを言い表せないんだろう。
この世の運動ってみんな回転してるじゃん。
台風もDNAも地球も銀河も。対局のものが存在した瞬間、回転という運動が始まるんじゃないだろうか。
善があって悪が即存在するから運動が始まる。
右があって左があるから回転する。
男と女がいるから回転する。古事記じゃイザナギとイザナミが回転して子供が生まれた。
すべてはそこに対局があるから命が生まれるんじゃないだろうか。
だから自分の悪を認めない限り、生命は本当の躍動をしないんじゃないだろうか。
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